作者インジャンナシについて

インジャンナシについて

インジャンナシ(1837~1892)は、内蒙古ジョスト盟トゥメド・バローン旗(現・遼寧省北票県下府郷)のショダルガ・バト・ホローの貴族家庭に生まれた。チンギス・ハーンの第二十七代直系子孫とされる。

幼名をハスチョロー、中国語名を宝衝山(ポー・デャンシャン)といい、潤亭(フォインティン)の称号を持つ。父ワンチンバルの第七子として生まれ、母はマンヨシャル、六番目の兄はスンワイ・ドンツォグ(宝順山)という。

家族の文学的環境

インジャンナシの父・ワンチンバル(宝鑒山、1795~1847)は文武両道の人物で、『ホホ・ソダル』最初の八回を執筆した。しかし1840年、アヘン戦争が勃発すると執筆を中断し、旗の軍隊を率いて参戦。侵略者を退ける功績を収めた。

兄のスンワイ・ドンツォグも才能ある人物で、インジャンナシを助けて『ホホ・ソダル』の一部を執筆し、漢文史書『通鑑綱目』をモンゴル語に翻訳して執筆に貢献した。

教育と才能

インジャンナシは幼少期からモンゴル語と漢語を習得し、さらにチベット語・満州語・梵語も学んだ。十代から詩作と絵画に親しみ、山水・人物・動物・草花を巧みに描いた。幼少時の詩集には彼自身による山と雲の挿絵が収められている。

モンゴル語の書物だけでなく、四書五経や『三国史』などの漢文古典も研究した。『ネゲン・ダブハル(一層楼)』では『紅楼夢』についても言及し、中国古典詩歌をモンゴル語で翻訳・紹介している。

旅と見聞

インジャンナシは若い頃、書斎にこもるだけでなく、モンゴル各地を旅してモンゴルの学者たちを訪ね歩いた。北京、金州などの都市にも居住し、当時のモンゴル・中国・世界の状況に精通していた。

二十歳までは読書と詩作に励んでいたが、宗教的影響を受けて運勢を信じ、暗い世相を嫌って隠遁生活を望んでいた時期もある。二十歳を過ぎてからモンゴル史書を本格的に読み始め、これが後の『ホホ・ソダル』執筆の基礎となり、民族的アイデンティティに目覚めるきっかけとなった。

困難な時代

当時、清朝の圧制と地方行政の二重の抑圧に苦しむ民衆の困難は、インジャンナシの家庭生活にも影を落とした。彼自身「三十歳以降は生活状況が悪化し、妻子も亡くなってすべてがうまくいかなくなった」と述懐している。

それでも彼は執筆を続け、当時の社会を批判する小説を生み出した。『ホホ・ソダル』のほか、『ネゲン・ダブハル(一層楼)』『ウラーン・ウヒラフ・テンヘム(泣紅亭)』『ウラン・ウーレン・ヌルス(紅雲涙)』などを著し、階級闘争と封建主義支配を痛切に批判した。

後年、インジャンナシはソムの役人となった。1891年には金丹道の乱を避けて金州市に移住し、翌1892年1月9日(光緒十七年、竜月十三日)、ザンチョー市で五十五歳の生涯を閉じた。