概要
明代のモンゴル語・中国語対訳語彙集。北虜とは明に侵攻したモンゴル人を指す呼称である。16世紀の中期モンゴル語を伝える貴重な言語資料として、モンゴル語史研究において重要な位置を占める。639項目の語彙を含み、天文・地理・時令・人物など17の分類(門)に体系的に整理されている。
収録文献
『登壇必究』
- 王鳴鶴(撰)
- 巻二二, 訳語
- 万暦年間(1573-1620)に編纂された将軍のための軍事手引書
『武備志』
- 芽瑞徴(撰)
- 巻二七七, 北虜考
- 1621年刊行
『盧龍塞略』
- 巻一九・二〇, 訳部
言語学的特徴
中期モンゴル語の音韻
本資料は中期モンゴル語の音韻体系を知る上で重要な情報を提供する。特に以下の特徴が観察される:
- 語頭のh音が明確に現れる(hon, heliye, hüker等)
- 現代ハルハ方言でšとなる箇所にsが現れる(例: sā¤iγai)
- 母音間の軟口蓋摩擦音の存在が確認される
語彙の特徴
- -n語幹名詞の不安定な使用(hodun, čilawunなど語幹のnが現れる場合と、kele, amaなど消失する場合が混在)
- 動詞は完了形-ba/-be(ülüsbe, čadba等)または現在未来形-nam(času oronam等)で現れる
- 現代モンゴル語で中国語借用語に置き換わった語彙が保持されている(例: borčo[q]「豆」、kemke「瓜」)
構造
全17章(門)から成り、中国の百科事典的配列に従う: 天文門・地理門・時令門・人物門・珍寶門・走獸門・聲色門・花木門・木菜門・飲食門・衣服門・飛禽門・身體門・馬鞍器械門・房舍車輛門・鐵器門・軍器什物門
写本と版本
複数の写本・版本が現存する:
- ハンガリー科学アカデミー図書館所蔵写本(Mong. No. 44)
- 北京大学図書館所蔵刊本(善本特藏閱覽室 No. 9060)
- 『中國兵書集成』影印本(解放軍出版社, 1989)
写本間には相違があり、それぞれ異なる系統の可能性が指摘されている。
関連語彙集
元代の類似語彙集との関係が注目される:
- 『華夷譯語』(1389年、洪武年間)
- 『至元譯語』(蒙古譯語)
これらの語彙集は相互に関連し、元代から明代にかけてのモンゴル語学習用教材の系譜を形成している。
研究史
ハンガリーにおける研究
Apatóczky, Ákos Bertalan(阿保磯、1974- )はハンガリーのカーロリ・ガーシュパール大学中国学科主任。エトヴェシュ・ロラーンド大学でモンゴル学修士号(1998年)、中国学修士号(2002年)を取得し、2006年に博士号を取得(summa cum laude)。博士論文のテーマは北虜訳語の解読であった。
主著『Yiyu 譯語 (Beilu yiyu 北虜譯語). An indexed critical edition of a 16th century Sino-Mongolian glossary』(Global Oriental/Brill, 2009)において、北虜訳語の全文索引付き校訂版を刊行し、本格的な言語学的分析を行った。続いて『The Translation Chapter of the Late Ming Lulongsai Lüe』(Brill, 2016)で『盧龍塞略』の訳語部分の復元研究を発表。
ロシアにおける研究
Pavel Rykin(パーヴェル・ルイキン、Рыкин П. О.)はロシア科学アカデミー言語学研究所上級研究員(2003-2024)を経て、2024年より内モンゴル大学蒙古学学院で教鞭を執る。モンゴル諸語の歴史比較言語学を専門とする。
北虜訳語に関する一連の論文をロシア語・英語で発表:
- 年代決定と起源(2013ロシア語, 2016英語)
- モンゴル語音の中国語転写原理(2012英語, 2013ロシア語)
- 軟口蓋音・口蓋垂音の転写(2012ロシア語)
- 破擦音の転写(2015中国語, 2019ロシア語)
- 格体系の分析(2018)
- 原モンゴル語*VgV/*VxVグループの反映(2018)
Rykinの研究により、北虜訳語の言語は1567-1603年頃の中期モンゴル語から現代モンゴル語への過渡的段階を反映することが明らかになった。
モンゴルにおける研究
Bürgüd, Kereidjin D.は『A Study of a Sino-Mongol Glossary Known as the Bei-lu Yi-yu 北虜譯語』(Ulaanbaatar: Soyombo printing, 2017, 226頁)を出版。中国語文字によるモンゴル語転写の方言音韻体系と正書法規則を解明した。
初期研究
Alexey M. Pozdneev(ポズドネーエフ)は『Лекции по истории монгольской литературы』(1908年)第3巻で北虜訳語を初めて学界に紹介。彼の版本では「韃靼語Дада юй」(タタール語)の名で705項目が収録されている。
その他の研究者
Igor de Rachewiltz(オーストラリア)は『華夷譯語』研究の序文で北虜訳語に言及。Louis Ligeti(ハンガリー、1902-1987)はモンゴル語彙集研究の基礎を築き、ハンガリー科学アカデミー所蔵写本を収集。
主要研究文献
単行本:
- Apatóczky, Ákos Bertalan. Yiyu 譯語 (Beilu yiyu 北虜譯語). An indexed critical edition of a 16th century Sino-Mongolian glossary. Global Oriental/Brill, 2009.
- Apatóczky, Ákos Bertalan. The Translation Chapter of the Late Ming Lulongsai Lüe: Bilingual Sections of a Chinese Military Collection. Brill, 2016.
- Bürgüd, Kereidjin D. A Study of a Sino-Mongol Glossary Known as the Bei-lu Yi-yu 北虜譯語. Ulaanbaatar: Soyombo printing, 2017.
- Pozdneev, A. M. Лекции по истории монгольской литературы [Lectures on the History of Mongolian Literature]. Т. 3. СПб., 1908.
論文:
- Rykin, Pavel. “On the principles of Chinese transcription of Mongolian sounds in the Sino-Mongolian glossary Dada yu/Beilu yiyu (late 16th–early 17th century).” Acta Orientalia Academiae Scientiarum Hungaricae 65/3 (2012): 323-334.
- Рыкин П. О. “О времени и месте составления китайско-монгольского словаря Дада юй/Бэйлу июй” [On the dating and provenance of the Sino-Mongol glossary Dada yu/Beilu yiyu]. Acta Linguistica Petropolitana 9/3 (2013): 189-217.
- Rykin, Pavel. “The Sino-Mongolian Glossary Dada yu / Beilu yiyu and the Problem of its Dating.” In: Reckel, Johannes (ed.), Central Asian Sources and Central Asian Research, 2016: 147-163.
- Rykin, Pavel. “Noun Cases in the Language of the Sino-Mongol Glossary Dada yu/Beilu yiyu from the Late Ming Period.” Journal Asiatique 306/2 (2018): 229-234.
- Rykin, Pavel. “Reflexes of the *VgV and *VxV Groups in the Mongol Vocabulary of the Sino-Mongol Glossary Dada yu/Beilu yiyu (Late 16th–Early 17th Cent.).” In: Apatóczky et al. (eds.), Philology of the Grasslands, Brill, 2018: 308-330.
現代の整理本
烏・満都夫(整理校注), 『蒙古訳語詞典』, 民族出版社, 1995.
最終更新: 2025年01月 関連項目: 中期モンゴル語 | 華夷譯語 | 明代モンゴル語資料
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