2025-11-30 · モンゴル語辞書の話

概要
『御製満蒙文鑑』(ぎょせいまんもうぶんかん)は、康熙56年(1717年)に清朝宮廷が編纂した満洲語-モンゴル語対訳解説辞典である。満洲語名は「han-i araha manju monggo hergen-i buleku bithe」(皇帝による満洲・モンゴル文字の鏡)、モンゴル語名は「qaɣan-u bicigsen manju mongɣol üsüg-ün toli bicig」(皇帝が書いた満洲・モンゴル文字の鏡の書)という。中国語では「満蒙文鑑」「満蒙合璧文鑑」などと称される。
本辞典の最大の特徴は、満洲語の見出し語に対し、モンゴル語訳だけでなく、詳細なモンゴル語による解説(釈義)が付されている点である。これは清朝多言語辞書シリーズの中で、モンゴル語話者を主要な読者として想定した唯一の解説辞典である。1708年の『御製清文鑑』(満洲語単言語辞典)の成功を受け、モンゴル語版として編纂されたものであり、清朝の多民族統治政策における「モンゴル語の地位」を象徴する学術的モニュメントである。
現代の研究では、本辞典を指して「二十一巻本」という呼称が使われることがある。これは全21巻構成であることに由来するが、正式名称ではない。ロシア語文献では「Зерцало маньчжуро-монгольской словесности」(満洲・モンゴル語文の鏡)と訳される。内モンゴル師範大学の研究者ウゼスグレン・ウルジー(Uzesgulen Ulzii)は、本辞典を「モンゴル語最初の解説辞典」と位置づけ、モンゴル語動詞接辞の研究に活用している。
基本情報:
- 正式名称(満洲語): Han-i araha Manju Monggo hergen-i buleku bithe
- 正式名称(モンゴル語): Qaɣan-u bicigsen Manju Mongɣol üsüg-ün toli bicig
- 中国語名: 御製満蒙文鑑 / 満蒙合璧文鑑
- 俗称: 二十一巻本(全21巻構成に由来)
- 編纂年: 康熙56年(1717年)
- 編纂者: 清朝翰林院(皇帝勅命)
- 言語構成: 満洲語(見出し語) – モンゴル語(対訳+解説)
- 巻数: 全21巻
- 配列方式: 意味分類(天文・地理・人倫など)
- 現存: 北京故宮博物院、中国民族図書館、内モンゴル図書館など
- デジタル版: 東北大学「モンゴル諸語と満洲語の資料検索システム」で一部公開
編纂の背景
康熙帝の多言語辞書編纂政策
康熙帝(在位1661-1722)は、清朝史上最も学術を重視した皇帝の一人であり、多言語辞書編纂を帝国統治の基盤と位置づけた。1708年、彼は『御製清文鑑』(満洲語単言語解説辞典、約12,000語)を勅撰させ、満洲語の規範化を達成した。この辞典は満洲語の正書法・語義・用法を確定する標準辞典となり、清朝官僚の必携書となった。
『御製清文鑑』の成功を受け、康熙帝は同様の解説辞典をモンゴル語でも作成することを決定した。これは単なる翻訳ではなく、モンゴル語話者(特にモンゴル王公・貴族・理藩院官僚)が満洲語を学習するための教材であり、同時にモンゴル語自体の規範化を目指すものであった。
理藩院とモンゴル語行政
理藩院(lifanyuan、モンゴル語:ulus-i jasaqu yamun)は、1638年に設立された清朝の中央官庁であり、モンゴル・チベット・青海・新疆の行政を管轄した。理藩院の官僚は、モンゴル語・満洲語・漢語の三言語能力を必須とし、モンゴル王公との外交交渉、モンゴル文書の翻訳、モンゴル地域の行政を担当した。
1691年のドロン・ノール会盟により、ハルハ・モンゴル(外モンゴル)が清朝に服属すると、モンゴル語使用地域は劇的に拡大した。これに伴い、モンゴル語能力を持つ官僚の養成が急務となり、実用的な満洲語-モンゴル語辞典の需要が高まった。
1708年『御製清文鑑』との関係
『御製満蒙文鑑』(1717年)は、『御製清文鑑』(1708年)の構造を継承しつつ、モンゴル語版として再編されたものである。
継承された要素:
- 意味分類配列(天文・地理・時令・人倫など)
- 解説形式(見出し語に詳細な語義説明を付す)
- 用例の提示(古典文献からの引用)
新たに追加された要素:
- モンゴル語訳(満洲語見出し語の対訳)
- モンゴル語による解説(満洲語の語義をモンゴル語で説明)
- モンゴル語文法情報(格変化・接辞の用法など)
内容と構成
全21巻の構成
本辞典は意味分類に基づく21巻から成る。具体的な分類項目は以下の通りと推定される(完全な目次は未確認):
推定分類:
- 天文門(天体・気象)
- 地理門(山川・方位)
- 時令門(暦法・季節・時刻)
- 人倫門(身体・親族・官職)
- 宮室門(建築・宮殿)
- 器用門(道具・器物)
- 服飾門(衣服・装身具)
- 珍宝門(金銀・玉石・宝飾)
- 飲食門(食物・飲料・調味料)
- 文史門(書籍・学術・文芸)
- 身体門(人体部位・動作)
- 人事門(社会関係・儀礼)
- 走獣門(家畜・野獣)
- 飛禽門(鳥類)
- 虫豸門(昆虫・爬虫類)
- 魚鼈門(魚類・水生動物)
- 草木門(樹木・草本)
- 果蓏門(果実・野菜)
- 穀粱門(穀物・豆類)
- 数目門(数詞・量詞・度量衡)
- 雑類門(その他)
この分類法は、『御製清文鑑』および後の『御製四体清文鑑』(1794年)に継承された。
項目構成の特徴
各見出し項目は以下の要素から成る:
1. 満洲語見出し語(縦書き、左から右への改行)
- 伝統満洲文字(有圏点満文)で表記
- 語頭形・語中形・語末形の字形変化を正確に記述
2. モンゴル語対訳(縦書き、右から左への改行)
- 伝統モンゴル文字で表記
- 満洲語の意味に対応するモンゴル語訳語
3. モンゴル語解説(釈義)
- モンゴル語による詳細な語義説明
- 用法・文脈・類義語との区別を記述
4. 用例(該当する場合)
- 満洲語・モンゴル語の古典文献からの引用
- 実際の使用例を示す
解説辞典としての価値
本辞典が「二十一巻本」と呼ばれ、特別視される理由は、モンゴル語による解説(釈義)が付されている点にある。単なる対訳辞典ではなく、モンゴル語話者が満洲語の微妙な意味の違いを理解できるよう、詳細な説明が加えられている。
解説の例(推定):
満洲語: eldengge
モンゴル語訳: ilangγui (明らかな)
モンゴル語解説: 「何らかの事物が隠されることなく、明瞭に見えること。または、疑いがなく確実であること。この語は、視覚的な明瞭さと、論理的な確実性の両方を表す。」
このような解説により、モンゴル語話者は満洲語の語彙を正確に理解し、適切に使用することができた。
言語学的価値
18世紀初頭モンゴル語の記録
1717年は、モンゴル語史において以下の時期に相当する:
- 書面語の保守性: 伝統モンゴル文字による書面語は13世紀以来の正書法を維持
- 口語の変化: ハルハ方言を中心とした口語は、書面語から乖離しつつあった
- 清朝行政用語の定着: 満洲語からの借用語・翻訳語が増加
本辞典のモンゴル語解説は、18世紀初頭の「公式モンゴル語」を記録する貴重な資料である。これは、理藩院の公文書・外交文書で使用される書面語であり、口語ではない。
満洲語-モンゴル語対応関係
本辞典は、満洲語とモンゴル語の語彙対応を体系的に記録する。特に、清朝の行政用語・官職名・法律用語が、どのようにモンゴル語に翻訳されたかを示す。
行政用語の対応例(推定):
| 満洲語 | モンゴル語 | 意味 |
|---|---|---|
| han | qaγan | 皇帝 |
| gūsa | qosiγun | 旗(八旗制度の単位) |
| yamun | yamun | 官署(借用語) |
| jasaγ | jasaγ | 旗長(モンゴル貴族の称号) |
| beile | beile | 貝勒(満洲貴族の称号、モンゴル語に借用) |
モンゴル語動詞形態論の記述
内モンゴル師範大学のウゼスグレン・ウルジー(Uzesgulen Ulzii)は、2023年の論文で本辞典を用いてモンゴル語動詞形成接辞を分析した。
本辞典に記録された接辞の例:
- -la/-le/-lo/-lü: 自由語根から動詞を形成(例:nom 「書」→ nomla- 「読む」)
- -na/-ne/-no/-nü: 自由語根から動詞を形成(例:kök 「青」→ kökö- 「青くなる」)
これらの接辞の異形態(variant)が、母音調和に従ってどのように変化するかが、本辞典で詳細に記述されている。
写本の伝来と所蔵
清朝宮廷旧蔵本
本辞典の原本は、清朝宮廷の蔵書であり、以下の機関に分散して所蔵されている:
北京故宮博物院(紫禁城)
- 清朝宮廷図書館(天禄琳琅など)旧蔵の写本を所蔵
- 閲覧には特別許可が必要
中国民族図書館(北京)
- モンゴル語・満洲語資料専門コレクション
- 清朝理藩院旧蔵資料を所蔵
内モンゴル図書館(フフホト)
- 内モンゴル自治区の公共図書館
- モンゴル語資料の収集に特化
現代の研究利用
東北大学「モンゴル諸語と満洲語の資料検索システム」 東北大学東北アジア研究センター(栗林均教授主導)が運営するオンラインデータベースで、本辞典の一部がデジタル化され公開されている。
URL: http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/project1/
このシステムにより、満洲語・モンゴル語の見出し語をローマ字・伝統文字・キリル文字で検索でき、辞典の原ページ画像を閲覧できる。
清朝多言語辞書の系譜における位置づけ
康熙帝治世の辞書編纂
康熙帝治世(1661-1722)には、以下の辞書が編纂された:
1708年: 『御製清文鑑』
- 満洲語単言語解説辞典
- 約12,000語収録
- 満洲語の正書法確立
1717年: 『御製満蒙文鑑』(本辞典)
- 満洲語-モンゴル語解説辞典
- 全21巻
- モンゴル語話者向け満洲語学習教材
1716-1720年頃: 『蒙文彙書』(推定)
- 満洲語-モンゴル語-漢語三言語辞典
- 実用的対訳辞書
- 完全な形での現存未確認
乾隆帝治世への継承
乾隆帝(在位1735-1796)は、祖父・康熙帝の辞書編纂事業を継承し、拡大した。
1771年: 『御製増訂清文鑑』
- 『御製清文鑑』(1708年)の増訂版
- 満洲語-漢語対訳追加
- 約18,000語に拡大
1794年: 『御製四体清文鑑』
- 満洲語-チベット語-モンゴル語-漢語四言語辞典
- 約18,667語収録
- 『御製満蒙文鑑』(1717年)の構造を継承
1790年代: 『御製五体清文鑑』
- 四体清文鑑にウイグル語を追加
- 五言語対訳辞典の完成
本辞典(1717年)は、この壮大な辞書編纂計画の第二段階を成すものであり、単言語辞典(1708年)から多言語辞典(1794年以降)への過渡期に位置する。
現代的意義
モンゴル語解説辞典の先駆
本辞典は、モンゴル語による解説辞典の最初期の例である。それ以前のモンゴル語辞典(『華夷訳語』1382年、『蒙語類解』1768年など)は対訳辞典であり、語義の詳細な説明を含まなかった。本辞典の解説形式は、後のモンゴル語辞書学に影響を与えた。
清朝多民族統治の言語実践
本辞典は、清朝が「モンゴル語」を重視した証拠である。満洲語を「国語」と定めつつ、モンゴル語話者のために解説辞典を編纂したことは、モンゴル貴族・王公の政治的重要性を反映する。
清朝は、モンゴル王公を「準満洲族」として遇し、通婚政策・爵位授与・優遇措置により、満洲-モンゴル連合を維持した。本辞典の編纂は、この政治的同盟を文化的・学術的に裏付けるものであった。
デジタル時代の再評価
東北大学のデジタル化により、本辞典は世界中の研究者に開かれた。18世紀モンゴル語の語彙・文法・意味論を研究する上で、不可欠の資料となっている。
関連項目
- 御製清文鑑 – 1708年満洲語辞典、本辞典の原型
- 御製四体清文鑑 – 1794年四言語辞典、本辞典の発展形
- 御製五体清文鑑 – 1790年代五言語辞典
- 蒙文彙書 – 1716-1720年三言語辞典(推定)
- 欽定蒙文彙書 – 1891年理藩院刊三言語辞典
- 清朝の言語政策 – 多言語帝国の統治戦略
主要研究文献
中国語文献
エンフバト・モンフツェツェグ(Enkhbat Monkhtsetseg):
- “Manchu-Mongolian and Mongol-Manchurian Dictionaries (Part II): 18-20th Centuries, the History of Compilation” (2016)
- 本辞典の編纂史を詳述
- ロシア語・英語で発表
ウゼスグレン・ウルジー(Uzesgulen Ulzii):
- “Clarifying the Meaning of Suffixes to Form Verbs in the Explanatory Dictionary in 21 Volumes” (2023)
- Mongolian Journal of Humanities and Social Sciences, Vol. 8, No. 17, pp. 80-92
- 本辞典を用いたモンゴル語動詞形態論研究
日本語文献
栗林均(Hitoshi Kuribayashi):
- 「モンゴル諸語と満洲語の資料検索システム」東北大学東北アジア研究センター、2017年~
- 本辞典のデジタル化プロジェクト
- URL: http://hkuri.cneas.tohoku.ac.jp/project1/
ロシア語文献
エンフバト・モンフツェツェグ(ロシア語論文):
- 「Зерцало маньчжуро-монгольской словесности」(1717年)に関する一連の研究
- 清朝多言語辞書の系譜を解明
補注
「二十一巻本」という呼称
「二十一巻本」は正式名称ではなく、研究者間の便宜的呼称である。全21巻構成であることに由来するが、同時代の文献には「満蒙文鑑」「満蒙合璧文鑑」などの名称が使用された。
康熙帝の序文
1708年の『御製清文鑑』には康熙帝自筆の序文が付されているが、1717年の本辞典にも同様の序文が存在する可能性が高い。ただし、現存写本の調査が不十分であり、確認されていない。
『蒙文彙書』(1716-1720年頃)との関係
本辞典(1717年)と同時期に、満洲語-モンゴル語-漢語の三言語辞典『蒙文彙書』が編纂されたと推定される。両者の関係(同一書か別書か、編纂順序など)は未解明である。
最終更新: 2025年11月30日
執筆: Itako (itako999.com)
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