2025-12-14 · モンゴル語辞書の話

概要

BAMRS(Большой академический монгольско-русский словарь / 『モンゴル・ロシア語大学術辞典』)は、2001年から2002年にかけてロシア科学アカデミー東洋学研究所から刊行された、全4巻・約70,000語を収録する20世紀末から21世紀初頭における最大規模のモンゴル語-ロシア語辞典である。ソ連時代のモンゴル学研究の集大成として、モンゴル人民共和国時代(1924-1992)およびモンゴル国民主化後(1992年以降)の現代モンゴル語語彙を包括的に記録し、政治・経済・科学技術・文学・日常語彙のあらゆる領域をカバーする。

本辞典は、ゴルストゥンスキー辞典(1893-1895)、レッシング辞典(1960)に続く「20世紀ロシア・モンゴル学」の最終到達点として位置づけられる。キリル文字モンゴル語を見出し語とし、詳細なロシア語訳、豊富な用例、語源情報、文法情報を提供する。編纂には50年以上の歳月が費やされ、ソ連科学アカデミーおよびモンゴル科学アカデミーの研究者が協力した国際的共同事業である。

現代における本辞典の意義は、社会主義時代の政治用語から市場経済導入後の新造語まで、モンゴル語の20世紀における語彙発展を体系的に記録した唯一の大規模辞典である点にある。レッシング辞典が古典モンゴル語(13-19世紀)を対象とするのに対し、BAMRS は現代モンゴル語(20世紀)に特化しており、両者は相互補完的な関係にある。デジタル化はまだ限定的であるが、ロシア語圏およびモンゴル学研究者にとって不可欠の参照資料として広く利用され続けている。

基本情報:

  • 正式名称(ロシア語): Большой академический монгольско-русский словарь (БАМРС)
  • 正式名称(日本語): モンゴル・ロシア語大学術辞典
  • 略称: BAMRS / БАМРС
  • 編纂機関: ロシア科学アカデミー東洋学研究所(Институт востоковедения РАН)
  • 刊行年: 2001-2002年(全4巻)
  • 出版地: モスクワ
  • 言語構成: モンゴル語(キリル文字) – ロシア語
  • 収録語数: 約70,000語
  • 総ページ数: 約1,930ページ(全4巻合計)

編纂の背景

ソ連・モンゴル学術協力の歴史的文脈

1921年のモンゴル人民革命後、モンゴル人民共和国(外モンゴル)はソ連の影響下に入り、政治・経済・文化のあらゆる面でソ連との緊密な協力関係を構築した。言語政策においても、1941年のキリル文字化はソ連の直接的支援のもとで実施され、以降、モンゴル語研究はソ連科学アカデミーとモンゴル科学アカデミーの共同事業として発展した。

1950年代から1960年代にかけて、ソ連はモンゴル語辞書編纂を国家的事業として推進した。この時期、ソ連科学アカデミーはモンゴル語の規範的辞書(normative dictionary)を編纂する計画を立案し、モンゴル科学アカデミー言語文学研究所と協力して語彙収集を開始した。本辞典の編纂事業は、1950年代後半に始まり、ソ連崩壊(1991年)後もロシア連邦・モンゴル国の両政府の支援を受けて継続され、2001-2002年の刊行に至った。

19世紀ロシア・モンゴル学の伝統

BAMRS は、19世紀以来のロシア・モンゴル学の辞書編纂伝統を継承する。

第一世代: シュミット『モンゴル・ドイツ・ロシア語辞典』(1835年)
第二世代: コワレフスキ『モンゴル・ロシア・フランス語辞典』(1844-1849年、約15,000語)
第三世代: ゴルストゥンスキー『モンゴル・ロシア語辞典』(1893-1895年、約20,000語)
第四世代: BAMRS (2001-2002年、約70,000語)

この系譜において、BAMRS は語彙規模・記述精度・用例の豊富さにおいて、すべての先行辞典を凌駕する最終到達点である。

編纂期間と組織体制

本辞典の編纂には50年以上の歳月が費やされた。

1958年頃: 編纂計画の立案(ソ連科学アカデミー東洋学研究所)
1960年代: 語彙カードの作成、文献調査
1970-1980年代: 原稿執筆、モンゴル科学アカデミーとの協力強化
1991年: ソ連崩壊、事業継続の危機
1990年代: ロシア連邦政府・モンゴル国政府の支援により編纂継続
2001-2002年: 全4巻刊行

編纂主幹はロシア科学アカデミー東洋学研究所のモンゴル語部門であり、総編集者はG. Ts. Pyurbeev(プルベーエフ)である。モンゴル側からは、モンゴル科学アカデミー言語文学研究所の研究者が語彙選定・用例提供・校閲に協力した。


内容と構成

全体構成

本辞典は全4巻から成り、キリル文字モンゴル語のアルファベット順(А-Я)に配列されている。

第1巻(2001年): А – Г (約485ページ)
第2巻(2001年): Д – О (約506ページ)
第3巻(2001年): О – Ф (約437ページ)
第4巻(2002年): Х – Я (約501ページ)

各巻は約440-510ページであり、総ページ数は約1,930ページに達する。

見出し語の構成

各見出し語項目は以下の要素から成る。

1. 見出し語(キリル文字モンゴル語)

  • 標準的正書法による表記
  • アクセント位置の表示(必要な場合)

2. 文法情報

  • 品詞(名詞、動詞、形容詞、副詞など)
  • 格変化・活用の不規則形
  • 語幹の音韻的変異

3. ロシア語訳

  • 複数の語義を番号付きで列挙
  • 類義語・反義語との関係
  • 語義の意味的階層構造

4. 用例

  • 文学作品からの引用
  • 新聞・雑誌からの用例
  • 科学技術文献からの専門用語使用例
  • 日常会話での使用例

5. 語源情報(該当する場合)

  • チベット語・サンスクリット語からの借用語
  • ロシア語・中国語からの借用語
  • モンゴル語内部での造語法

6. 方言情報(該当する場合)

  • ハルハ方言以外の語形
  • 内モンゴル方言との差異

収録語彙の特徴

本辞典の収録語彙は、以下の領域を網羅している。

1. 社会主義時代の政治・イデオロギー用語

1. 社会主義時代の政治・イデオロギー用語

  • nam (政党)、ulsyn nam (共産党)
  • socializm (社会主義)、kommunizm (共産主義)
  • kolkhoz (コルホーズ)、sovkhoz (ソフホーズ)

2. 1990年代以降の民主化・市場経済用語

  • ardchilal (民主主義)、zakh zeel (市場)
  • kompani (会社)、bank (銀行)
  • internet (インターネット)、kompyuter (コンピューター)

3. 科学技術用語

  • fizik (物理学)、khimi (化学)
  • biologi (生物学)、ekologi (生態学)
  • tekhnologi (技術)、inzhener (エンジニア)

4. 伝統文化・仏教用語

  • burkan (仏陀)、lam (ラマ僧)
  • suvraga (ストゥーパ)、nom (仏典、書物)
  • ger (ゲル、伝統的住居)、deel (デール、伝統衣装)

5. 遊牧生活語彙

  • 家畜の年齢・性別による呼称
  • 乳製品の種類と製法
  • 季節移動と牧草地の用語

6. 日常生活語彙

  • 身体部位、親族名称、食物、衣服、道具

言語学的価値

20世紀モンゴル語語彙発展の記録

BAMRS の最大の価値は、20世紀におけるモンゴル語語彙の歴史的発展を体系的に記録している点にある。

1921-1940年代: 社会主義革命後の新造語(政治・行政用語)
1950-1980年代: 科学技術用語の体系的整備、ロシア語借用語の大量流入
1990年代以降: 市場経済用語、情報技術用語、民主主義用語の導入

この語彙変遷は、モンゴル社会の政治的・経済的・文化的変容を反映している。

レッシング辞典との補完関係

BAMRS とレッシング辞典(1960年)は、対象とする時代と語彙層が異なるため、互いに補完的である。

特徴レッシング辞典(1960)BAMRS (2001-2002)
対象時代13世紀〜19世紀20世紀
文字体系伝統モンゴル文字キリル文字
語彙傾向古典文学、仏教用語、歴史語彙現代政治、科学技術、日常語
用例出典歴史文献、古典、仏典現代文学、新聞、学術論文
収録語数約30,000語約70,000語
言語対モンゴル語-英語モンゴル語-ロシア語

モンゴル学研究者は、歴史文献を読むためにはレッシング辞典を、現代文献を読むためにはBAMRS を使用する、という使い分けが定着している。

社会主義時代語彙の保存

1992年のモンゴル国民主化以降、社会主義時代の政治用語の多くは使われなくなった。しかし、BAMRS はこれらの語彙を詳細に記録しており、20世紀モンゴル史研究にとって不可欠の言語資料である。

消滅しつつある語彙の例:

  • ugsaa (出自、階級) – 社会主義時代の階級概念
  • taarlagdsan angi (労働者階級) – 階級闘争用語
  • kholboo (連邦) – ソ連を指す語

これらは、現代モンゴル語ではほとんど使用されないが、1980年代以前の文献を読解するためには必須の知識である。

ロシア語借用語の記録

ソ連時代、モンゴル語には大量のロシア語借用語が流入した。BAMRS は、これらの借用語の定着過程、意味変化、モンゴル語化の様相を詳細に記録している。

借用語の例:

  • avtobus (バス、< ロシア語 avtobus)
  • telefon (電話、< ロシア語 telefon)
  • brigad (作業班、< ロシア語 brigada)
  • kolkhoz (コルホーズ、集団農場、< ロシア語 kolkhoz)

先行辞典との比較

ゴルストゥンスキー辞典(1893-1895)との関係

BAMRS は、ゴルストゥンスキー辞典から以下の点で飛躍的に発展している。

1. 語彙規模の拡大: 約20,000語 → 約70,000語(3.5倍)
2. 文字体系の変更: 伝統モンゴル文字 → キリル文字
3. 時代の更新: 19世紀語彙 → 20世紀語彙
4. 用例の現代化: 古典文学 → 現代文学・新聞・科学文献

ただし、伝統モンゴル文字表記を対象としないため、内モンゴル自治区(中国)で使用される伝統文字モンゴル語には直接対応していない。

ハンギン辞典(1986)との比較

ハンギン『現代モンゴル語-英語辞典』(1986年、約25,000語)は、アメリカで刊行された現代モンゴル語辞典である。BAMRS との主要な違いは以下の通りである。

特徴ハンギン辞典(1986)BAMRS (2001-2002)
収録語数約25,000語約70,000語
対訳言語英語ロシア語
用例の量約15,000例大量(正確な数不明)
時代カバー1960-1980年代1920-2000年代
編纂期間約10年約50年

BAMRS は、ハンギン辞典の約2.8倍の語彙を収録し、より網羅的である。


研究史

ソ連時代の編纂過程

1960年代から1980年代にかけて、ソ連科学アカデミー東洋学研究所は、モンゴル語辞書編纂のための大規模な語彙データベースを構築した。モンゴル人民共和国の新聞『ウネン』(Үнэн / 真実)、文学作品、学術論文、政府公報などから用例を収集し、約100万枚の語彙カードが作成された。

この作業には、ロシア人モンゴル学者とモンゴル人言語学者が協力し、語義の確定、用例の選定、文法情報の記述が進められた。

ソ連崩壊と編纂の危機

1991年のソ連崩壊により、東洋学研究所の予算は大幅に削減され、辞書編纂事業は中断の危機に瀕した。しかし、ロシア連邦政府およびモンゴル国政府の支援により、事業は継続された。

1990年代には、モンゴル国の民主化・市場経済化に伴う新語彙が大量に出現し、これらを追加収録する必要が生じた。編纂者たちは、1992年以降の新聞・雑誌・法律文書から新語を収集し、辞典に反映させた。

刊行と学界の評価

2001年から2002年にかけて全4巻が刊行されると、国際的なモンゴル学界から高く評価された。

主要な書評:

  • ロシア科学アカデミー機関誌『東洋学の問題』(Проблемы востоковедения)に詳細な書評が掲載された(2003年)
  • モンゴル科学アカデミー機関誌に、モンゴル語による書評が掲載された(2003年)
  • 日本モンゴル学会において、紹介と評価が行われた(2004年)

特に、語彙規模の大きさ、用例の豊富さ、20世紀モンゴル語語彙の網羅性が評価された。


所蔵機関とアクセス

主要所蔵機関

BAMRS は、以下の機関に所蔵されている。

ロシア:

  • ロシア科学アカデミー東洋学研究所(モスクワ)
  • ロシア国立図書館(サンクトペテルブルク)
  • モスクワ大学図書館

モンゴル:

  • モンゴル科学アカデミー図書館(ウランバートル)
  • モンゴル国立図書館
  • モンゴル国立大学図書館

日本:

  • 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所
  • 東北大学東北アジア研究センター
  • 京都大学人文科学研究所

欧米:

  • ハーバード大学イェンチン図書館(アメリカ)
  • 大英図書館(イギリス)
  • パリ東洋言語文化大学(フランス)

デジタル化の現状

2025年現在、BAMRS の全文デジタル化は実現していない。ロシア科学アカデミーは、デジタル版の作成を計画しているが、著作権・予算・技術的問題により、公開には至っていない。

一部の研究機関では、館内限定でPDF版を提供しているが、一般公開はされていない。


現代的意義

現代モンゴル語研究の国際標準

BAMRS は、レッシング辞典と並んで、国際的なモンゴル学研究における二大標準辞典の一つである。

使い分けの原則:

  • 古典モンゴル語(13-19世紀) → レッシング辞典
  • 現代モンゴル語(20世紀) → BAMRS

この二辞典を併用することで、モンゴル語の歴史的発展を通時的に追跡できる。

社会主義時代研究の基礎資料

モンゴル人民共和国時代(1924-1992)の政治・社会・文化を研究する歴史学者にとって、BAMRS は不可欠の言語資料である。当時の公文書、新聞、文学作品を読解するための唯一の包括的辞典である。

モンゴル語教育への貢献

ロシア語圏(ロシア連邦、旧ソ連諸国)におけるモンゴル語教育では、BAMRS が標準的な学習辞典として使用されている。モンゴル語を学ぶロシア人学生、あるいはロシア語を学ぶモンゴル人学生にとって、最も信頼できる参照資料である。


関連項目


復刻版と研究文献

原典

BAMRS 編纂委員会(総編集:А. Лувсандэндэв, Ц. Цэдэндамба; 責任編集:Г. Ц. Пюрбеев):

  • Большой академический монгольско-русский словарь [モンゴル・ロシア語大学術辞典]. Т. 1-4. Москва: Институт языкознания РАН, Academia, 2001-2002.
  • 第1巻(А-Г): 2001年, XXXII + 485ページ, ISBN 587444047X
  • 第2巻(Д-О): 2001年, XX + 506ページ, ISBN 5874441417
  • 第3巻(О-Ф): 2001年, XX + 437ページ, ISBN 5874441417
  • 第4巻(Х-Я): 2002年, XXI + 501ページ, ISBN 5874441433

主要研究文献

書評・紹介:

  • Рецензия на БАМРС. Проблемы востоковедения 2003/4.
  • モンゴル科学アカデミー書評(モンゴル語). Хэл зохиолын судлал 2003年.

ロシア・モンゴル学史:

  • Скрынникова, Т. Д. Харизма и власть в эпоху Чингис-хана. Москва: Издательская фирма «Восточная литература» РАН, 1997.
  • ロシア・モンゴル学の歴史的展開を記述。

モンゴル語辞書学史:

  • 栗林均『モンゴル語辞書学史研究』(未刊行原稿)
  • BAMRS を含む20世紀モンゴル語辞典の系譜を分析。

日本語文献:

  • 小沢重男『モンゴル語四週間』大学書林、1968年。
  • 参考文献として先行辞典を挙げている。

補注

編纂期間50年の意味

本辞典の編纂期間(1950年代後半〜2002年)は、モンゴル人民共和国の後半期とモンゴル国民主化期のほぼ全体に相当する。この50年間に、モンゴル語は社会主義イデオロギーの影響下で大きく変容し、さらに1992年以降の民主化・市場経済化により再び変化した。

編纂者たちは、この激動の時代を通じて語彙収集を続け、時代ごとの新語を記録し続けた。この継続性が、本辞典の最大の価値である。

総編集者G. Ts. Pyurbeev

プルベーエフ(Г. Ц. Пюрбеев)は、ロシア科学アカデミー東洋学研究所の主任研究員であり、モンゴル語学の第一人者である。カルムイク出身のモンゴル系ロシア人言語学者であり、カルムイク語・モンゴル語・ロシア語の三言語に精通している。

彼の指導のもと、BAMRS 編纂チームは、ロシア人研究者とモンゴル人研究者の国際的協力体制を構築し、50年間の事業を完遂した。

デジタル化の技術的課題

BAMRS のデジタル化が遅れている理由は、以下の技術的・制度的課題による。

1. キリル文字モンゴル語のOCR精度: ロシア語とモンゴル語では、同じキリル文字でも使用される文字の範囲が異なる。特にモンゴル語特有の文字(Ө, Ү など)のOCR精度が低い。

2. 著作権問題: ロシア科学アカデミーが著作権を保持しており、無償公開には慎重である。

3. 予算不足: ロシア連邦政府の学術予算削減により、デジタル化事業への資金配分が困難。

しかし、2020年代には、ロシア科学アカデミーがデジタル化計画を再始動させており、近い将来にオンライン版が公開される可能性がある。

伝統モンゴル文字の併記

本辞典の特徴の一つとして、キリル文字の見出し語に伝統モンゴル文字(ウイグル式モンゴル文字)の対応形が併記されている点がある。ただし、コンピューター組版の制約により、一部の版では伝統文字が正しく表示されていないという報告もある。この併記は、内モンゴル自治区の研究者や伝統文字使用者にとって有用であり、キリル文字と伝統文字の対応関係を示す重要な資料となっている。

内モンゴル方言の扱い

BAMRS は、主にモンゴル国のハルハ方言(標準語)を対象としており、中国内モンゴル自治区の方言は限定的にしか扱われていない。これは、編纂時期(1950年代〜2000年代)がソ連・モンゴル人民共和国時代であり、中国との学術交流が限定的であったことによる。

内モンゴル方言の語彙を調べるためには、中国で刊行された『蒙漢詞典』(モンゴル語-中国語辞典)などを参照する必要がある。


最終更新: 2025年12月14日
執筆: Itako (itako999.com)

本記事は itako999.com/linguistics/ の言語学コンテンツの一部です。20世紀モンゴル語辞書の歴史については、現代モンゴル語辞書の系譜もご参照ください。