2025-11-29 · モンゴル語辞書の話

概要

『蒙古字韻』(Menggu Ziyun, モンゴル字韻)は、1308年(至大元年)に元朝で編纂された韻書である。朱宗文・沈澄らが編纂し、約3,500の漢字をパスパ文字で音写し、声調と韻目によって分類した。本書の最大の特徴は、モンゴル帝国の公式文字であるパスパ文字を用いて、中国語(元代北方漢語、いわゆる「大都音」)の音韻体系を精密に記録した点にある。パスパ文字は表音性が極めて高く、母音・子音・声調を明示的に区別するため、14世紀初頭の中国語音韻を復元する第一級の資料となっている。

本書は、中国の伝統的な韻書(『切韻』『広韻』など)の分類法を継承しつつ、パスパ文字という新たな表記体系を適用した実験的著作である。元朝政府は1269年にパスパ文字を「国字」と定めたが、実際の普及は限定的であった。『蒙古字韻』は、この「国字」を中国語表記に応用する試みであり、科挙試験での使用も想定されていた可能性がある。しかし、1368年の元朝崩壊後、明朝は使用を禁止し、本書は忘却された。

現代の研究において、『蒙古字韻』は二つの学術的価値を持つ。第一に、元代北方漢語(現代北京語の直接の祖形)の音韻体系を復元するための最も詳細な資料である。第二に、パスパ文字の実用例として、文字創制の理想と現実を示す歴史的証拠である。20世紀初頭以降、羅常培・服部四郎・照那斯図らの研究により、本書に基づく元代漢語音韻論が確立され、中国語史研究の基礎となっている。

基本情報:

  • 正式名称: 蒙古字韻(Menggu Ziyun)
  • 別称: 蒙古韻略、至大重修宣光新韻
  • 編纂者: 朱宗文(主編)、沈澄(協編)
  • 編纂年: 1308年(至大元年)
  • 勅撰機関: 元朝翰林国史院
  • 収録字数: 約3,500漢字
  • 文字体系: パスパ文字(ʼPhags-pa script)による音写
  • 構成: 韻目分類(16摂41韻)、声調区分(平・上・去・入)
  • 現存: 中国国家図書館、台北故宮博物院、日本東洋文庫など

編纂の背景

パスパ文字の制定と「国字」政策

1269年、元朝の初代皇帝フビライ・カーン(在位1260-1294)は、チベット仏教サキャ派の高僧パスパ(ʼPhags-pa, 1235-1280)に命じて、帝国の統一文字を創制させた。パスパ文字は、チベット文字を基盤としながら、モンゴル語・中国語・チベット語・ウイグル語など、元朝支配下の諸言語を統一的に表記することを目的とした表音文字である。

フビライは詔書により、パスパ文字を「国字」(国家公用文字)と定め、勅令・印章・貨幣・碑文などに使用を命じた。しかし、漢字・モンゴル文字・チベット文字という既存の文字体系は根強く、パスパ文字の日常的普及は限定的であった。

中国語表記への応用の試み

元朝政府は、パスパ文字を中国語表記に応用するため、以下の事業を推進した。

科挙試験での使用:
元朝は1315年に科挙試験を復活させたが、受験者にパスパ文字の習得を義務づけた可能性がある(史料に明示的記述はなく、推定)。

韻書の編纂:
中国の伝統的な韻書(『切韻』『広韻』『集韻』など)は、漢字の反切(二字で一字の音を示す方法)により発音を示したが、この方法は学習者にとって難解であった。パスパ文字の表音性を利用すれば、直接的な発音表記が可能となる。

『蒙古字韻』の位置づけ:
本書は、パスパ文字を用いた韻書として、元朝の「国字」政策を具体化する試みであった。同時に、モンゴル人官僚や多言語話者にとって、中国語学習の便宜を図る実用書でもあった。

編纂者

朱宗文:
生没年不詳。元朝の翰林国史院に勤務した漢人官僚と推定される。『蒙古字韻』の主編者として名が残るが、詳細な経歴は不明である。

沈澄:
朱宗文と協力して編纂にあたった。同様に詳細不明。

元朝の翰林国史院は、歴史編纂・詔書起草・文書管理を担当する官庁であり、多言語能力を持つ官僚が集まっていた。朱宗文らは、パスパ文字と中国語音韻論の両方に精通していたと考えられる。


内容と構成

韻書としての構造

『蒙古字韻』は、中国の伝統的な韻書の分類法を踏襲している。韻書とは、漢字を発音(韻母)によって分類した辞書であり、詩作・科挙試験において不可欠な参考書であった。

韻目分類:
本書は、3,500余の漢字を16摂(大分類)41韻(小分類)に分類している。これは、13世紀の『中原音韻』(1324年)や『古今韻会挙要』(1297年)などの北方漢語韻書と類似する体系である。

声調区分:
各韻はさらに四声(平声・上声・去声・入声)に分類される。ただし、元代北方漢語では入声が消失しつつあり、本書でも入声の収録字は少ない。

パスパ文字による音写

各漢字には、以下の情報が記される。

  1. 漢字: 見出し字
  2. パスパ文字音写: 発音を表音的に記録
  3. 声調記号: パスパ文字の右側または左側に点を付加して声調を示す
  • 平声(陰平・陽平): 無標
  • 上声: 字母の右側に点
  • 去声: 字母の左側に点
  • 入声: 字末に -p, -t, -k を付加(ただし元代北方語では稀)
  1. 義注: 簡単な意味説明(漢字)

例(再構音):

  • 漢字「東」: パスパ文字 tuŋ (平声)、義「方位」
  • 漢字「董」: パスパ文字 tuŋ˥ (上声、右点付加)、義「姓」
  • 漢字「凍」: パスパ文字 tuŋ˥˩ (去声、左点付加)、義「水凝固」

16摂41韻の体系

以下は、『蒙古字韻』の主要韻目である(簡略版)。

韻目代表字パスパ音写(再構)現代北京音
1. 東鐘東、公、中-uŋ-ong
2. 江陽江、王、光-aŋ-ang
3. 支思支、知、詩-i-i (after z/c/s → -ɨ)
4. 齊微齊、西、低-ei-ei/-i
5. 魚模魚、書、居-ü/-u
6. 皆来皆、買、怪-ai-ai
7. 真文真、人、春-ən-en/-in
8. 寒山寒、看、安-an-an

この体系は、南宋の韻書(『礼部韻略』など)に比べて韻目が統合されており、北方漢語の音韻変化(韻尾の合流、入声の消失)を反映している。


言語学的価値

元代北方漢語の音韻復元

『蒙古字韻』は、14世紀初頭の北方漢語(大都音、現在の北京方言の祖形)の音韻体系を、以下の点で詳細に記録している。

声母(語頭子音):
パスパ文字は、中国語の声母を精密に区別する。

  • 全清音(無気無声): p, t, k
  • 次清音(有気無声): pʰ, tʰ, kʰ
  • 全濁音(有声): b, d, g
  • 次濁音(鼻音・流音): m, n, l, r

元代には、中古漢語の全濁音(b, d, g)が無声化しつつあったが、『蒙古字韻』ではまだ有声音として記録されている。この変化の過程を追跡できる。

韻母(母音+韻尾):
16摂41韻の体系により、元代の韻母が詳細に分類される。特に、以下の変化が確認できる。

  • 入声韻尾(-p, -t, -k)の消失または弱化
  • 鼻音韻尾の合流(-n と -ŋ の区別の維持)
  • 介音(i-, u-, ü-)の発達

声調:
四声(平・上・去・入)が明示的に区別される。パスパ文字の声調記号(右点・左点)により、調値の違いが推定できる。

『中原音韻』との比較

『中原音韻』(1324年、周徳清編)は、元代の雑劇(演劇)の押韻を基に編纂された韻書であり、北方口語音を反映する。『蒙古字韻』(1308年)は、これより16年早く、より保守的な文語音を記録している。

両者の比較により、14世紀前半における中国語音韻の急速な変化が明らかになる。

主要な違い:

  • 『蒙古字韻』: 入声の残存(一部)、全濁音の区別
  • 『中原音韻』: 入声の完全消失、全濁音の無声化完了

写本の伝来と所蔵

原本の散逸と写本の伝承

元朝崩壊(1368年)後、明朝はパスパ文字の使用を禁止した。『蒙古字韻』の原刊本は失われ、写本のみが少数伝存した。

清代(17-18世紀)の考証学者たちは、本書の学術的価値を認識し、写本を収集・研究した。しかし、写本ごとに欠字・誤写があり、完全なテキストは失われていた。

主要所蔵機関

中国国家図書館(北京):

  • 請求記号: 善本特藏
  • 清代写本、部分的欠損あり

台北故宮博物院:

  • 『四庫全書』系統の写本
  • 清朝宮廷旧蔵

日本・東洋文庫(東京):

  • 八木沢元編『蒙古字韻』影印本(1938年刊行)
  • 日本の研究者による影印・校訂版

韓国・ソウル大学:

  • 朝鮮王朝期の写本(詳細不明)

研究史

清代考証学の再発見(18世紀)

銭大昕(1728-1804):
清代の考証学者。『十駕斎養新録』において、『蒙古字韻』が元代の「蒙古新字」(パスパ文字)で書かれていることを初めて論証した。

翁方綱(1733-1818):
『蒙古字韻』の音韻体系を研究し、パスパ文字の音価を部分的に解読した。

近代学界の基礎研究(19-20世紀初頭)

Paul Pelliot(ポール・ペリオ, 1878-1945):
フランスの東洋学者。敦煌文書からパスパ文字資料を発見し、『蒙古字韻』との関連を指摘した。

羅常培(1899-1958):
中国の言語学者。主著『元朝秘史及其復原』(1959年)において、『蒙古字韻』の音韻体系を現代言語学の方法で分析した。元代漢語音韻論の科学的基礎を築いた。

日本における研究(20世紀中葉)

八木沢元(1901-1987):
日本の中国語学者。1938年に『蒙古字韻』の影印本を東洋文庫から刊行し、日本の研究者に資料を提供した。

服部四郎(1908-1995):
日本の言語学者。『蒙古字韻』の音韻分析により、元代漢語の声調体系を解明した。論文「『蒙古字韻』の音韻体系」(『東洋学報』1949年)は、元代音韻論の古典的研究となった。

中国における研究の深化(20世紀後半)

照那斯図(ジャオ・ナストゥ):
内モンゴル大学教授。主著『八思巴字与元代汉语』(1985年、中華書局)において、パスパ文字資料を総合的に分析し、元代漢語音韻論を体系化した。『蒙古字韻』の音韻体系の復元において決定的な貢献を果たした。

耿振生:
中国社会科学院言語研究所研究員。『明清等韻学通論』(1992年)において、『蒙古字韻』を等韻学(音韻分類学)の歴史に位置づけた。

国際共同研究の展開(21世紀)

W. South Coblin:
アメリカの中国語史研究者。A Handbook of ‘Phags-pa Chinese(2007年、University of Hawaiʻi Press)において、パスパ文字中国語資料(『蒙古字韻』を含む)の包括的研究を発表した。

デジタル化:
2000年代以降、中国国家図書館などがデジタル撮影を実施し、オンラインでの閲覧が可能となった。


復刻版と研究文献

影印版・校訂版

影印版:

  • 八木沢元編『蒙古字韻』東洋文庫、1938年
  • 中国国家図書館編『蒙古字韻』影印本、北京図書館出版社、2003年

校訂版:

  • 孔広林・照那斯図編『蒙古字韻校本』科学出版社、1987年(音韻索引付)

主要研究文献

日本語:

  • 服部四郎「『蒙古字韻』の音韻体系」『東洋学報』31巻、1949年
  • 平山久雄「『蒙古字韻』と元代北方音」『東洋文化研究所紀要』1970年

中国語:

  • 羅常培『元朝秘史及其復原』北京:科学出版社、1959年
  • 照那斯図『八思巴字与元代汉语』北京:中華書局、1985年
  • 耿振生『明清等韻学通論』北京:語文出版社、1992年

欧文:

  • Pelliot, Paul. “Les systèmes d’écriture en usage chez les anciens Mongols.” Asia Major 2 (1925): 284-289.
  • Poppe, Nicholas. The Mongolian Monuments in ḥP’ags-pa Script. Göttinger Asiatische Forschungen, 1957.
  • Coblin, W. South. A Handbook of ‘Phags-pa Chinese. Honolulu: University of Hawaiʻi Press, 2007.

パスパ文字の実用例としての価値

文字政策の理想と現実

『蒙古字韻』は、パスパ文字を中国語に応用した最大規模の著作である。本書の存在は、元朝政府が「国字」政策を真剣に推進したことを示す。

しかし、同時に、パスパ文字の普及が限定的であったことも明らかである。科挙試験での使用が義務化されなかったこと、続編が編纂されなかったこと、民間での使用例がほとんどないことから、本書は政府主導の実験的事業にとどまったと考えられる。

多言語帝国における言語政策の困難

元朝は、モンゴル語・中国語・チベット語・ウイグル語など多様な言語を統治する多言語帝国であった。パスパ文字は、これらの言語を統一的に表記する「普遍文字」として構想されたが、既存の文字体系(漢字・モンゴル文字・チベット文字)の根強い文化的地位により、実現しなかった。

『蒙古字韻』の編纂は、この困難を象徴する。中国語学習者にとって、パスパ文字は便利であったかもしれないが、漢字文化圏の知識人にとっては受け入れがたい「異質な文字」であった。


現代的意義

中国語史研究における不可欠性

『蒙古字韻』は、14世紀初頭の北方漢語を復元する最も詳細な資料であり、以下の研究に不可欠である。

中古漢語から近代漢語への音韻変化:

  • 全濁音の無声化過程
  • 入声の消失過程
  • 韻母体系の簡略化
  • 声調の変化(平声の陰陽分裂)

方言史:
現代北京方言・東北方言の形成過程を追跡する基礎資料となる。

文字史・表記法史

パスパ文字による中国語表記という実験は、表音文字と表語文字(漢字)の関係を考察する興味深い事例である。20世紀の中国語ローマ字化運動(ラテン化新文字、ピンイン)にも、先行例として参照された。

デジタル時代の再評価

Unicodeへのパスパ文字収録(2008年)により、本書のデジタルテキスト化が技術的に可能となった。OCR(光学文字認識)やコーパス言語学の手法により、新たな研究が期待される。


関連項目


補注

「蒙古字韻」という書名の意味

「蒙古字」は「蒙古新字」(パスパ文字)を指す。「韻」は韻書(発音分類辞書)を意味する。つまり、「パスパ文字による韻書」という意味である。

元朝では、パスパ文字を「蒙古字」「蒙古新字」「国字」などと呼んだ。「蒙古」は、フビライが採用した国号「大元」の別称ではなく、モンゴル人が創制した文字という意味である。

16摂41韻の由来

『蒙古字韻』の16摂41韻体系は、南宋の韻書『礼部韻略』(1037年)や『古今韻会挙要』(1297年)の系統を継承しつつ、北方漢語の音韻変化を反映して簡略化されている。

「摂」は韻目の大分類、「韻」は小分類である。たとえば「東鐘摂」には、「東」「冬」「鍾」などの韻が含まれる。

パスパ文字の読み方

パスパ文字は、現代の研究者が復元した音価で読まれる。しかし、元代の実際の発音は、モンゴル語・中国語・チベット語のいずれの音韻体系に基づいていたか、議論がある。

照那斯図は、『蒙古字韻』のパスパ文字は「中国語話者がモンゴル語の文字を使って中国語を表記した」ものであり、純粋なモンゴル語音ではないと主張する。


最終更新: 2025年11月29日
執筆: Itako (itako999.com)

本記事は itako999.com/linguistics/ の言語学コンテンツの一部です。元代の言語資料については、元朝の言語と文字もご参照ください。