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ムカディマット・アル・アダブ(Muqaddimat al-adab)

📅 2006.01.10 · 🏷️ モンゴル語辞書の話 ⏱️ 9 min read

概要

12世紀にホラズム(現ウズベキスタン)出身のペルシャ人学者アル・ザマクシャリ(al-Zamakhsharī, 1075~1144 [生没年には諸説あり])によって編纂されたアラビア語-ペルシャ語-トルコ語の多言語対訳語彙集。原題は「文学入門」を意味し、アラビア語学習のための教材として作成された。後にチャガタイ語訳やモンゴル語訳が付加され、中央ユーラシアの言語研究における重要な文献資料となっている。

アル・ザマクシャリについて

著者アブー・アル=カーシム・マフムード・イブン・ウマル・アル・ザマクシャリは、ホラズム地方のザマクシャル村に生まれた。ペルシャ語を母語としながらも、アラビア語の卓越した知識で知られ、ブハラやメッカなどで学んだ。メッカで長期間滞在したことから「神の隣人(Jār Allāh)」という尊称で呼ばれた。クルアーン注釈書『カッシャーフ』をはじめ、文法学、語彙学、修辞学など60冊以上の著作を残し、その多くがアラビア語で書かれている。彼の業績は「もしアル・ザマクシャリがいなければ、アラブ人は自分たちの母語の深淵を知ることはなかっただろう」と評価されるほどである。

チャガタイ語やモンゴル語を含む現存写本は1492年に成立したとされるが、原本は14世紀頃にさかのぼると考えられている。この貴重な写本は1926年にウズベクの著述家・文化運動家アブドゥラウフ・フィトラト(Abdurauf Fitrat, 1886-1938)によってブハラで発見された。その後エミールの宮廷図書館(革命後、アヴィツェンナ図書館と改称)に保管された。近年、タシケントでも新たな写本が発見され、研究に新展開をもたらしている。最古の現存写本は13~15世紀のものとされる。

言語学的価値

中央アジア諸語への貢献

本辞書は中期テュルク語研究において、マフムード・カーシュガリーの『ディーワーン・ルガート・アッ=トゥルク』に次ぐ重要文献とされる。オグズ系、キプチャク系、カングリー系のテュルク諸方言に関する情報を含み、数世紀にわたりマドラサの教科書として使用された。ホラズム・テュルク語(初期チャガタイ語)の資料としても不可欠である。

音韻研究への貢献

アラビア文字で記されたモンゴル語は、中期モンゴル語の発音を知る上で極めて貴重な資料である。表記法の分析により、当時の音韻体系の再構成が可能となる。

語彙と文例

本辞書は単語だけでなく、数多くの文例を含む点で特徴的である。ただし、語順はVOS(動詞-目的語-主語)であり、これはアラビア語の文を逐語訳で記したものと見なされている。この特性により、原語の構造が保存されつつ、モンゴル語による表現が記録されている。

研究史

ポッペによる先駆的研究

モンゴル語学者ニコラス・ポッペ(Nicholas Poppe)は、ブハラのエミール宮廷図書館所蔵の写本をもとに本格的研究を展開した。1938年の主著”Монгольский словарь Мукаддимат ал-Адаб”(『ムカディマット・アル・アダブ モンゴル語辞典』)において、モンゴル語とトルコ語の語彙を抜粋し、文法体系を詳細に分析した。この研究には『イブン・ムハンナの語彙集』も併録されている。

日本における研究展開

斎藤純男による一連の研究により、日本でも本辞書の重要性が認識されるようになった。長らく全貌が不明とされていたが、タシケントでの写本発見により、斎藤らのプロジェクトが写真版を日本にもたらし、研究が大きく進展した。

トルコにおける研究

トルコの歴史学者・テュルク学者アフメト・ゼキ・ヴェリディ・トガン(Ahmed Zeki Velidi Togan, 1890-1970)は、ホラズム語訳を含む『ムカディマット・アル・アダブ』の研究を行い、1951年にイスタンブル大学から『ホラズム文化に関する文献 第1部』として出版した。この業績により、ホラズム・テュルク語研究に新たな地平が開かれた。

中国での研究

中国内蒙古では、保朝魯がポッペ(1938)のモンゴル語部分を抜粋し、漢訳版を出版することで、中国語圏の研究者にも資料へのアクセスを提供している。

主要研究文献

ポッペの著作

  • Poppe, N. “Монгольский словарь Мукаддимат ал-Адаб, чч. I-II.” Труды института востоковедения [АН СССР], XIV. М.-Л., 1938.
  • Poppe, N. “Mongolian Dictionary Mukaddimat Al-Adab Pts. 1-3.” Works of the Institute of Oriental Studies, XIV, Gregg International, 1968.
  • Poppe, N. “Eine viersprachige Zamaxsharii-Handschrift.” Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft 101 (1951): 301-332.
  • Poppe, N. “Zur mittelmongolischen Kasuslehre: Eine syntaktische Untersuchung.” Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft 103 (1953): 92-125.

日本の研究

  • 斎藤純男「Монгольский словарь Мукаддимат ал адаб: a」『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』50 (1999): 151-173.
  • 斎藤純男「Монгольский словарь Мукаддимат ал адаб: b」『東京学芸大学紀要 第2部門 人文科学』52 (2001): 47-77.
  • 斎藤純男『中期モンゴル語の文字と音声』松香堂書店、2003年.
  • 菅野裕臣・斎藤純男「4言語対訳ムカッディマト・アル・アダブの写本調査」『日本モンゴル学会紀要』35 (2005).
  • 斎藤純男「『ムカディマット・アル・アダブ』において’alifとha’で音写されたモンゴル語の語末母音について」『アジア・アフリカ言語文化研究』60、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2000年.

トルコの研究

  • Togan, Ahmed Zeki Velidi (ed.). Muqaddimat al-adab [of al-Zamakhsharī]: with the translation in Khorezmian / Horezmce tercümeli Muqaddimat al-adab (Documents on the Khorezmian culture Part 1 / Horezm kültürü vesikalari Kisim 1). İstanbul Üniversitesi Edebiyat Fakültesi Umumî Türk Tarihi Enstitüsü Yayinlari, 1951.

中国の研究

  • 保朝魯『漢訳簡編-穆[ka]迪瑪特蒙古語詞典』内蒙古大学出版社、2002年.

最終更新: 2006年01月10日
関連項目: 中期モンゴル語 | アラビア文字モンゴル語 | 多言語辞書史


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