2025-11-28 · モンゴル語文献の話
概要
モンゴル語木版本は、13世紀の元朝期から20世紀初頭まで、約700年にわたりモンゴル文化圏における知識伝達の主要な媒体であった。金属活字が普及する以前、モンゴルでは仏教経典、歴史書、文学作品、実用書などが木版によって印刷され、北京、イフ・フレー(現ウランバートル)、シベリアのブリヤート地域などで独自の出版文化が花開いた。本稿では、東アジア印刷文化史において独自の重要な位置を占めるモンゴル語木版本について、東京外国語大学附属図書館が所蔵する世界有数のコレクションを基軸に、その技術的変遷と文化的意義を概観する。
清代北京で出版された精緻な官版(北京版)から、モンゴル各地の寺院で制作された素朴な私版まで、その形態は多様である。特に、チベット仏教大蔵経『カンギュル』『タンギュル』の翻訳・出版事業は、モンゴル語の文語標準化と語彙体系の確立に決定的な役割を果たした。
現代において、これらの資料は単なる骨董的価値にとどまらず、言語学・歴史学・宗教学の第一級資料として再評価されている。デジタルアーカイブ化の進展により、物理的な制約を超えた国際的な共同研究が可能となり、失われた知的ネットワークの全貌が明らかになりつつある。
基本情報:
- 対象資料: モンゴル語木版印刷本 (Xylographs)
- 時代: 13世紀(元朝)〜20世紀初頭
- 主要製作地: 北京、イフ・フレー(ウランバートル)、内モンゴル、ブリヤート
- 主要文字: 伝統モンゴル文字、パスパ文字、トド文字
- 代表的出版物: 『モンゴル秘史』『大蔵経(甘珠爾・丹珠爾)』『ゲセル・ハーン物語』
- 主要コレクション: 東京外国語大学附属図書館、モンゴル国立図書館、ロシア科学アカデミー
印刷技術の歴史と背景
黎明期:元朝の印刷活動
モンゴルの印刷史は13世紀に遡る。マルコ・ポーロはフビライ・ハーンの宮廷付近での印刷活動を記録しており、現存最古の印刷物の一つとして、13世紀のパスパ文字による『宝の蔵スバシド』(サキャ・パンディタ著)の断片が東トルキスタンで発見されている。1312年にはチョイジン・オソルによる『入菩提行論』が出版され、1330年代には『七老人』経が2,000部印刷されるなど、元朝期には既に大規模な出版体制が整っていた。
技術的変遷
モンゴルの印刷技術は、以下の三段階で発展した:
- 元朝〜清代 (13世紀〜20世紀初頭): 木版印刷が主流。孔子の『聖諭広訓』や北京版が代表的。
- 19世紀後半〜20世紀初頭: 石版印刷(リトグラフ)の導入。木版から活版への過渡期。
- 1910年代以降: 金属活字による活版印刷への移行。
このほか、金、銀、銅、珊瑚、真珠などを用いた豪華な装飾写本や、銀板・銅板への彫刻といった特殊な技術も発展した。
内容と構成
翻訳文献の伝統
モンゴル語文献の多くは翻訳によって豊かになった。特に17世紀から18世紀にかけてのチベット大蔵経『甘珠爾』(109巻)・『丹珠爾』(226巻)の翻訳・出版は、モンゴル文化史上の記念碑的事業である。グンガー・オソルやザヤ・パンディタといった学僧が翻訳を主導し、世俗文献(『パンチャタントラ』『詩学』)や宗教文献が体系的に整備された。
北京版と地方版
北京版: 清朝政府の支援により北京で出版された木版本。質の高い紙と彫刻技術が特徴で、多言語対訳辞書(清文鑑類)や仏典が多く含まれる。
地方寺院版: イフ・フレー(大フレー)や内モンゴルの寺院で出版されたもの。イフ・フレーの「イヒーン・スンブム」印刷所には1,000種以上の版木が保管されていた。また、寺院独自の紙幣(「チーズ」)も木版で印刷された。
モンゴル独自の著作
翻訳だけでなく、独自の著作活動も盛んであった。
- 歴史書: 『モンゴル秘史』『アルタン・トプチ』『ボロル・トリ』(水晶鑑)
- 文学: 『ゲセル・ハーンの物語』『ジャンガル』(英雄叙事詩)、インジナシの小説
- 社会批判: 『黄金の宮殿の扉の上の文書』など
言語学的・文化的価値
言語史研究への貢献
木版本は、各時代の言語使用実態を固定して伝えるタイムカプセルである。
- 文字体系の変遷: パスパ文字、ウイグル式モンゴル文字、トド文字の使用実態。
- 翻訳語彙の定着: サンスクリットやチベット語からの借用語、仏教用語の定訳化プロセス。
- 多言語接触: 漢語・満洲語・モンゴル語・チベット語の対訳辞書は、清代の言語接触の実態を示す。
文化交流の証言
北京版に見られる中国古典(『三国志演義』『西遊記』)のモンゴル語訳は、中華文化のモンゴル的受容を示す。逆に、モンゴルの歴史書が漢訳される例もあり、双方向の知的交流が確認できる。また、「調和する四匹の動物」などの図像版画は、平和思想の視覚的伝播を物語る。
コレクションと所蔵
東京外国語大学附属図書館
東京外大は、世界有数のモンゴル語木版本コレクション(約40点)を所蔵する。
- 初期収集: 1910-40年代に北京で購入された北京版約20点。
- COE拡充: 2000年代に購入された北京版およびブリヤート版(シベリア刊行)。 特にブリヤート版は、ロシア帝国支配下のモンゴル系民族の出版活動を伝える貴重な資料である。
モンゴル国内の遺産
革命前のモンゴルには2,320種以上の書名が記録されており、歴史、文学、法律、医学、地理など多岐にわたる。これらはモンゴル国立図書館などに収蔵されている。
研究史
外国学者による開拓
19世紀より、ロシアやヨーロッパの学者がモンゴル文献の収集・出版に着手した。
- イサーク・シュミット: 『エルデニーン・トプチ』(1829)、『ゲセル・ハーン』(1839)の独訳出版。
- A.M.ポズドネーエフ: 『モンゴル秘史』の石版出版(1897)。
- ラムステッド: パスパ文字『スバシド』の同定(1912)。
現代的意義
デジタルアーカイブと知識の民主化
現在、モンゴル国立図書館や内モンゴル大学、東京外国語大学などでデジタルアーカイブ化が進行している。これにより、脆弱な紙媒体を保存しつつ、世界中の研究者がアクセス可能となった。AI技術によるOCR(光学文字認識)の精度向上も期待されており、膨大な未解読資料の研究が加速するだろう。
関連項目
最終更新: 2025年11月28日
執筆: Itako (itako999.com)
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