🎯 概要
フビライ・ハーンの至元年間(1264-1294)に成立した、現存最古のモンゴル語・漢語対訳語彙集である。単独の辞書ではなく、民間百科事典『事林広記』の一節として収録されて伝来した。収録語数は約50-100語と小規模だが、明代の『華夷訳語』(1382年)より約100年古く、元朝初期の中期モンゴル語を漢字音写で記録した最古の語彙資料として、比類なき歴史言語学的価値を持つ。
📖 詳細
草の根の言語学
官製の勅撰辞書ではなく、漢人の知識人や商人がモンゴル語を学ぶための「実用会話手帳」という性格を持つ。パスパ文字が正式教育で教えられる一方、民間では手軽な漢字音写の語彙集が重宝された。「天→騰格裏(Tenggeri)」「地→轄拶(Gajar)」「人→窟温(Kü’ün)」のように記録され、特に「人」を*Kü’ün*と記す点は注目に値する。後の『華夷訳語』では*Kümün*となるが、この段階では語中の*m*が弱化していた可能性を示す、音韻変化の「化石」である。
南方漢字音の問題
『事林広記』が福建で出版されたため、音写に用いられた漢字音が北方官話ではなく南方方言(閩音・呉音)の影響を受けている可能性が指摘されており、元代漢語音韻史研究の資料としても興味深い。
現代での位置づけ
モンゴル帝国の支配が漢人社会にもたらした言語接触の最初期の記録であり、民間レベルでのモンゴル語学習需要を示す社会言語学的証拠である。