書誌情報

書名: 『般若心経』モンゴル語版(ローマ字転写・日本語訳付)
出版: 蒙古研究会、1924年(大正13年)
編者: 鈴江萬太郞
頒布: 1926年(大正15年)、仏教連合会第九回講習会(京都市)
講演題目: 「蒙古宗教事情」
性質: 非売品(限定頒布)

鈴江萬太郞とモンゴル仏教研究

鈴江萬太郞の経歴

鈴江萬太郞(すずえ まんたろう)は、元陸軍軍人であり、退役後は日本におけるモンゴル語研究の権威として知られる人物である。

軍人時代
東京外国語学校でモンゴル語を修得した後、ブリヤート方面(シベリア地域)で情報収集などの工作活動に従事した。陸軍内部ではモンゴル語の権威者の一人として認識されていた。

研究者・教育者として
退役後は東京外国語学校などでモンゴル語教員を務め、モンゴル語研究に尽力した。主な著作・編纂物は以下の通り。

  • 『蒙古文範』(1923年、大連刊行)―― モンゴル語の文法教科書
  • 『般若心経』モンゴル語版(1924年、蒙古研究会刊行)
  • 『蒙古語大辞典』(下永憲次との共編、陸軍省支援)―― 「内外未曽有の大宝典」と称される

特に『蒙古語大辞典』は、モンゴル語研究の基礎資料として日本のモンゴル学の発展に大きく貢献した。『蒙古文範』は実用的なモンゴル語教育のための教材であり、当時の大陸での日本人のモンゴル語学習需要に応えたものである。

蔵書と遺産
鈴江の収集した貴重な文献および著作の一部は、現在、東洋文庫や三康文化研究所附属三康図書館などに所蔵され、研究資料として活用されている。

モンゴル仏教経典の収集活動

鈴江は、軍務および研究活動を通じてモンゴルを訪れる機会に恵まれ、現地で多数の仏教経典を収集した。その中には、モンゴル語に翻訳された数種の『般若心経』が含まれていた。これらの写本・印刷本は、数百年前に原典(サンスクリット語またはチベット語)から忠実にモンゴル語に翻訳されたものであるという。

学術的意義

鈴江の収集したモンゴル語『般若心経』は、以下の点で学術的に重要である。

  1. 翻訳史研究: チベット仏教がモンゴルに伝播する過程での経典翻訳の実態を示す
  2. テキスト比較研究: 複数の異本の存在は、翻訳伝統の多様性を物語る
  3. 宗教文化史: モンゴル民衆の信仰実践における『般若心経』の位置づけを明らかにする
  4. 軍事情報と学術研究の交差: 大正期の日本における大陸政策と学術研究の複雑な関係を示す事例

出版の特徴

三言語対照形式

本書は、単なる翻訳書ではなく、以下の三層構造を持つ学術的テキストである。

1. モンゴル文字テキスト
伝統モンゴル文字による縦書きテキスト。数百年の伝統を持つ写本・印刷本の系統を反映。

2. ローマ字転写
モンゴル文字が読めない研究者のために、正確な音韻表記を提供。大正期の転写方式を用いており、当時の日本におけるモンゴル語研究の方法論を示す貴重な資料でもある。

3. 日本語直訳
逐語的な日本語訳。モンゴル語の語順や文法構造を保持した直訳方式により、原文の構造を理解できる。

印刷技術

画像から判断できる特徴は以下の通り。

  • 赤色インク: モンゴル文字テキストおよびローマ字転写が赤色で印刷されており、視覚的に際立たせている
  • 枠線: 各ページに赤色の枠線が施され、伝統的な経典の装丁形式を模している
  • 版面構成: 左右見開きで対照できるレイアウト
  • 紙質: 和紙または高品質の洋紙を使用(経年による変色が見られる)

『般若心経』のモンゴル語訳の歴史

チベット仏教経典としての伝播

『般若心経』(Prajñāpāramitāhṛdaya)は、大乗仏教の根本経典の一つであり、チベット仏教においても重視されてきた。モンゴルへは、主にチベット仏教(ゲルク派)の伝播とともに、チベット語訳を底本としたモンゴル語訳が広まった。

翻訳の系統

モンゴル語訳『般若心経』には、以下のような翻訳伝統がある。

初期翻訳(13-14世紀)
元朝期に、パスパ・ラマの指導のもと、チベット仏教経典の組織的翻訳が始まった時期に、『般若心経』も翻訳された可能性がある。

『甘珠爾』所収版(17-18世紀)
1636-1725年にかけて翻訳・出版された大蔵経『甘珠爾』(カンギュル)の中に、『般若心経』が含まれている。これが最も権威ある標準的なモンゴル語訳とされる。

民衆版(18-19世紀)
寺院や個人によって制作された簡略版や儀礼用の版本。鈴江が収集したのは、この系統に属する可能性が高い。

モンゴル語訳の特徴

サンスクリット語原典やチベット語訳と比較した場合、モンゴル語訳には以下の特徴が見られる。

  1. 直訳的傾向: 原典の語順や構文をできるだけ保持
  2. 仏教術語の借用: 「般若」「菩薩」などの重要な術語はチベット語またはサンスクリット語からの音写を使用
  3. 意訳的要素: モンゴル語として自然な表現にするための意訳も部分的に存在

大正期の日本におけるモンゴル研究

軍事・政治と学術の交錯

大正期(1912-1926)の日本におけるモンゴル研究は、純粋な学術的関心と、大陸政策に基づく実践的必要性が複雑に絡み合った分野であった。

歴史的背景

  • 日露戦争(1904-1905)後の満洲・モンゴルへの影響力拡大
  • ロシア革命(1917)とシベリア出兵(1918-1922)
  • 外モンゴル人民共和国の成立(1924)
  • 内モンゴルをめぐる中国・日本・ソ連の勢力争い

研究の二重性
鈴江萬太郞のようなモンゴル語研究者は、軍事情報活動と学術研究という二つの顔を持っていた。東京外国語学校は、外交官や軍人に必要な語学能力を養成する機関としての役割も担っており、モンゴル語教育は実践的な必要性から推進された側面が大きい。

しかし同時に、こうした実務的関心が、モンゴル文化・歴史・宗教に関する真摯な学術研究を促進したことも事実である。『般若心経』のような宗教文献の収集と研究は、純粋な学問的探究心に基づくものであり、軍事的価値とは直接関係しない文化的営為であった。

蒙古研究会の活動

蒙古研究会は、大正期に設立された日本のモンゴル研究組織である。当時の日本は、大陸政策の一環として内陸アジア研究に力を入れており、モンゴル語・文化・宗教の研究が政治的・学術的双方の関心から推進されていた。

組織の性格
蒙古研究会は、軍部との関係を持ちながらも、学術的な研究成果の普及を目的とした組織であった。鈴江萬太郞のような軍出身の研究者が中心となり、実践的なモンゴル語能力と現地経験に基づいた研究を行っていた。

主な活動

  • モンゴル語教育の推進(東京および大陸での教育機関)
  • モンゴル関連文献の収集と出版(日本国内および満洲・モンゴル地域)
  • 研究者・実務家の育成
  • 対モンゴル政策への学術的情報提供

特筆すべきは、鈴江の『蒙古文範』が大連で出版された点である。大連は日露戦争後に日本の租借地となった関東州の中心都市であり、満洲・モンゴル方面への玄関口として、大陸進出に関わる人材の教育拠点となっていた。大連での出版は、実地でモンゴル語を必要とする軍人・官僚・商人などへの教材提供という実践的目的を示している。

時代背景
1920年代の日本は、ロシア革命後のシベリア出兵(1918-1922)、外モンゴル人民共和国の成立(1924)など、モンゴル地域の政治的変動期にあった。このような状況下で、モンゴル語能力を持つ人材の育成と、現地情報の収集・分析が急務とされていた。

1926年仏教連合会での講演

本書が頒布された仏教連合会第九回講習会(1926年、京都市)は、日本の仏教各宗派が集まる重要な学術会議であった。鈴江萬太郞の講演「蒙古宗教事情」は、当時の日本仏教界にモンゴルのチベット仏教の実態を紹介する貴重な機会となった。

講演の背景

  • 大正期の日本仏教界における国際的視野の拡大
  • 内陸アジアへの関心の高まり
  • チベット仏教研究の萌芽期

非売品としての性格

本書が非売品として限定頒布された理由は、以下のように推測される。

  1. 学術的性格: 一般向けではなく、研究者・僧侶向けの専門資料
  2. 製作コスト: 赤色印刷など、特殊な印刷技術を要したため大量生産に不向き
  3. 講演資料: 講習会参加者への配布資料という位置づけ
  4. 希少性の保持: 限定頒布により、資料的価値を維持

モンゴル語『般若心経』の文化的意義

信仰実践における役割

モンゴルにおいて『般若心経』は、以下のような場面で読誦された。

日常的実践

  • 朝夕の勤行
  • 個人の読経
  • 病気平癒や厄除けの祈願

儀礼的実践

  • 寺院での法要
  • 葬送儀礼
  • 年中行事

護符としての使用

  • 携帯用の小型経典(ペチャ)
  • お守りとしての経文
  • 家屋や天幕での掲示

口承文化との関係

モンゴルの遊牧社会では、文字文化と口承文化が共存していた。『般若心経』のような短い経典は、暗記・口誦されることも多く、文字テキストは記憶を助ける補助的役割も果たした。

現代的意義と保存の課題

資料的価値

鈴江萬太郞が収集・出版したモンゴル語『般若心経』は、以下の点で現代においても重要な学術資料である。

歴史言語学的価値
大正期以前のモンゴル語の実態を示す一次資料。音韻、語彙、文法の通時的研究に不可欠。

宗教文化史的価値
20世紀初頭のモンゴル仏教の実態を知る手がかり。社会主義化以前の伝統的信仰の様相を伝える。

書誌学的価値
大正期の日本における東洋学研究の水準と方法論を示す。印刷技術、編集方針、学術的関心の在り方を反映。

文化交流史的価値
日本・モンゴル・チベット・インドを結ぶ仏教文化圏の連続性を実証。

デジタル化の必要性

本書のような非売品の限定頒布物は、現存部数が限られており、散逸・劣化の危険性が高い。以下の保存措置が望まれる。

  1. 高精細デジタル撮影: 原本の状態を正確に記録
  2. テキストデータ化: OCRおよび手動入力によるテキスト化
  3. 注釈データベース: 語彙・文法・翻訳に関する注釈の電子化
  4. 公開アーカイブ: 研究者コミュニティでのアクセス可能化

関連資料と研究展望

同時代の類似資料

大正期には、他にも以下のようなモンゴル仏教経典の翻訳・研究が行われた。

  • 小川貫弌『蒙文大蔵経目録』
  • 栗林均『蒙古語文法研究』
  • 服部四郎『蒙古語音韻論』

現代の研究動向

近年のモンゴル仏教文献研究では、以下のようなアプローチが取られている。

デジタル人文学的手法

  • コーパス言語学による語彙研究
  • テキストマイニングによる翻訳パターンの抽出
  • ネットワーク分析による経典伝播経路の解明

比較文献学的研究

  • サンスクリット・チベット・モンゴル・満洲語版の対照研究
  • 翻訳理論の観点からの分析
  • 異本間の系統関係の解明

文化人類学的視点

  • 現代モンゴルにおける『般若心経』の受容
  • 仏教復興運動における経典の役割
  • 民衆信仰との習合形態

おわりに

鈴江萬太郞によって収集・出版されたモンゴル語版『般若心経』は、大正期の日本におけるモンゴル研究の一つの到達点を示す資料である。三言語対照形式による精緻な編集、赤色印刷による視覚的工夫、そして講習会での限定頒布という形態は、当時の学術的水準の高さと、モンゴル仏教への深い関心を物語っている。

この資料は、単なる翻訳テキストにとどまらず、日本・モンゴル・チベット・インドを結ぶ仏教文化圏の連続性を体現する文化遺産である。数百年前に始まったモンゴル語への翻訳、20世紀初頭の日本での研究と出版、そして現代におけるデジタル保存と研究の継続――この長い時間軸の中で、『般若心経』は東アジア仏教文化の生きた伝統を今日に伝え続けている。

今後、このような貴重な資料のデジタル化と学術的活用が進むことで、モンゴル語仏教文献研究は新たな展開を見せるであろう。そして、それは単に過去の文化を理解するだけでなく、現代のグローバル化した世界における文化的多様性と相互理解の重要性を、私たちに教えてくれるはずである。


参考情報

原資料
鈴江萬太郞編『蒙古文範』大連、1923年(大正12年)
現所蔵: 東洋文庫、三康文化研究所附属三康図書館

鈴江萬太郞編『般若心経』蒙古研究会、1924年(大正13年、非売品)
頒布: 仏教連合会第九回講習会、京都市、1926年(大正15年)

鈴江萬太郞・下永憲次編『蒙古語大辞典』陸軍省支援、大正期

関連研究
鈴江萬太郞・下永憲次編『蒙古語大辞典』陸軍省支援、大正期
小川貫弌『蒙文大蔵経目録』
栗林均『モンゴル語文法研究』
Н. Пүрэвжав『Монгол Ганжуурын судлал』(モンゴル甘珠爾研究)
L. Ligeti, Catalogue du Kanjur mongol imprimé

デジタルアーカイブ

  • モンゴル国立図書館デジタルコレクション
  • 内モンゴル大学モンゴル学研究センター
  • 東京外国語大学附属図書館デジタルアーカイブ
  • 京都大学人文科学研究所所蔵チベット・モンゴル文献

本稿は、鈴江萬太郞収集・編纂のモンゴル語版『般若心経』(1924年出版)の学術的・文化史的意義について考察したものである。

最終更新: 2025年11月

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