概要
『華夷訳語』は、1382年(洪武15年)に明朝の翰林院で編纂されたモンゴル語・中国語対訳語彙集である。元朝崩壊からわずか14年後、明朝は北方のモンゴル勢力との外交・情報収集のため、実務的なモンゴル語能力を必要とした。モンゴル人学者・火源潔らが編纂したこの語彙集は、漢字によるモンゴル語音写と中国語訳を含み、雑字(語彙部分)と来文(例文部分)の二部構成からなる。
本辞典は『モンゴル秘史』『蒙古字韻』と並ぶ中世モンゴル語研究の三大基本文献の一つであり、14世紀後半のモンゴル語音韻・語彙・文法を知る第一級の史料である。同時に、元明交代期における多民族国家の言語政策と外交実務の実態を伝える歴史資料でもある。
現代においても、東アジアにおける多言語辞書編纂の伝統と、言語能力の政治的・文化的価値を示す重要な文化遺産として研究が続いている。
基本情報:
- 正式名称: 華夷訳語(かいやくご、Hua-Yi Yiyu)
- 編纂年代: 1382年(洪武15年)
- 編纂者: 火源潔(翰林院侍講、モンゴル系学者)ほか
- 言語構成: モンゴル語(漢字音写) – 中国語
- 収録内容: 雑字(語彙)、来文(例文・外交文書)
- 現存写本: ベルリン国立図書館、東洋文庫、北京図書館ほか
- 分類: 甲種本(モンゴル語)、乙種本(各種文字使用言語)、丙種本(簡略版)
編纂の背景
歴史的文脈
1368年、朱元璋が明朝を建国し、元朝は北方草原地帯に撤退した。しかし北元政権は存続し、明朝は複雑な対モンゴル関係を維持する必要があった。外交文書の理解、使節団との交渉、情報収集のため、実務的なモンゴル語能力が急務となった。
編纂者・火源潔
火源潔は元朝時代からの学者で、明朝に仕えたモンゴル系知識人である。元朝の公用語であったモンゴル語に精通し、翰林院侍講として明朝の外交実務に不可欠な語学専門家として登用された。1382年、明朝建国からわずか14年後に本辞典を編纂した。
内容と構成
全体構成
甲種本『華夷訳語』は二部構成からなる:
第一部:雑字(語彙集)
天文・地理・人倫・官職・器物・動植物など、分野別に分類された語彙を収録。各項目は漢字によるモンゴル語音写と対応する中国語訳で構成される。
第二部:来文(例文集)
実用的な外交文書、書簡、会話表現を収録。各例文は以下の三層構造:
- 漢字によるモンゴル語音写
- 中国語による逐語訳(傍訳)
- 中国語による全体訳(総訳)
この三層構造により、学習者はモンゴル語の語順や文法構造を理解しながら、実用的な表現を習得できる。
石田幹之助による分類
日本の東洋史学者・石田幹之助(1891-1974)は、『華夷訳語』を以下の三種に分類した:
甲種本 – モンゴル語対訳(漢字音写のみ)
乙種本 – 各種文字使用言語対訳(原文字+漢字音写)
丙種本 – 簡略版(雑字のみ、来文なし。モンゴル語部分は「韃靼館訳語」と称される)
言語学的価値
音韻研究
漢字による音写は、14世紀後半のモンゴル語の発音を復元する手がかりとなる。たとえば adaq 「足」は「阿答黒」と記録されており、現代モンゴル語で消失した語末*-q*音の存在が確認できる。同時に、当時の中国語(明代官話)の音韻体系をも反映している。
語彙・文法研究
元朝時代のモンゴル語語彙が体系的に記録されており、現代モンゴル語や中世モンゴル語諸文献との比較研究に不可欠である。例文における逐語訳により、モンゴル語の語順、格助詞、人称接尾辞などの文法要素が明確に示される。
歴史研究への貢献
外交文書や書簡の文例は、言語資料であると同時に元明交代期の政治・外交関係を知る貴重な史料でもある。
現存写本と所蔵機関
主要所蔵機関
ドイツ・ベルリン国立図書館
1407年(永楽5年)の四夷館刊本を所蔵
日本・東洋文庫
写本を所蔵。目録には『華夷譯語』『續華夷譯語』として記載
中国・北京図書館(現・中国国家図書館)
『北京図書館古籍珍本叢刊』第六冊に影印収録
中国・故宮博物院
複数の写本を所蔵
ユーラシア的文脈
同時代の類似辞書群
『華夷訳語』は、13~14世紀にモンゴル帝国が促進したユーラシア規模の多言語辞書編纂運動の一環である。
東アジア:
- 『至元訳語』(モンゴル語-中国語、1276年)
- 高麗/朝鮮:司訳院の多言語教育施設(1276年設立)
中央アジア・イラン:
- ザマフシャリー『ムカッディマト・アル・アダブ』(12世紀、14世紀にモンゴル語追加)
- イブン・ムハンナー『Kitāb Hilyat al-Insān』(アラビア-ペルシャ-テュルク-モンゴル語、14世紀)
マムルーク朝:
- 『Kitāb Majmūʿ Tarjumān』(テュルク-アラビア-モンゴル-ペルシャ語、1343年)
これらは、モンゴル帝国下の多民族・多言語行政環境において、言語能力が政治的・経済的価値を持ったことを示す。
中世モンゴル語研究の三大文献
『華夷訳語』は、『モンゴル秘史』(13世紀)と『蒙古字韻』(14世紀)と並んで、中世モンゴル語研究の基礎文献である。これら三文献の比較により、13~14世紀のモンゴル語の音韻変化、語彙の発展、文法の変化を追跡できる。
研究史
主要研究者と業績
石田幹之助(日本)
「所謂丙種本『華夷訳語』の『韃靼館訳語』」(1944)で甲乙丙三分類を確立
栗林均(日本)
『「華夷訳語」(甲種本)モンゴル語全単語・語尾索引』(2003)により詳細な語彙研究が可能に
M. Lewicki(ポーランド)
La langue mongole des transcriptions chinoises du XIVe siècle(1949, 1959)で包括的言語学的研究
E. Haenisch(ドイツ)
Sino-mongolische Glossare(1950s)で文献学的・言語学的分析
Ákos B. Apatóczky(ハンガリー)
Yiyu: An Indexed Critical Edition of the 16th Century Sino-Mongolian Glossary(2006)
復刻版と研究文献
主要な復刻版
中国語版
- 『華夷訳語』『北京図書館古籍珍本叢刊』第六冊、書目文献出版社
- 烏・満達夫校注『華夷訳語』内蒙古文化出版社、1998年
欧文版
- Mostaert, A. & Rachewiltz, I. de. Le Materiel Mongol du Houa i i iu 華夷訳語 de Houng ou (1389), 2 vols., Bruxelles, 1977, 1995.
日本語主要研究文献
- 石田幹之助「所謂丙種本『華夷訳語』の『韃靼館訳語』」『北亜細亜学報 第2輯』1944年
- 栗林均『「華夷訳語」(甲種本)モンゴル語全単語・語尾索引』東北大学東北アジア研究センター、2003年
- 越智サユリ「華夷譯語丙種本『韃靼譯語』におけるモンゴル語について」『京都大学言語学研究』23号、2004年
現代的意義
デジタル化の進展
近年、『華夷訳語』のデジタル化が進み、世界中の研究者がアクセス可能となった:
- 中国国家図書館デジタルアーカイブ
- 東北大学東北アジア研究センター索引データベース
新たな研究手法
デジタル化により、コーパス言語学的アプローチ(語彙頻度、コロケーション分析)や、比較言語学的研究(中央アジア・東アジアの言語接触研究)が可能となった。
関連項目
- 蒙語類解 – 朝鮮司訳院の中国語-韓国語-モンゴル語辞典
- 北虜訳語 – 16世紀のモンゴル語・中国語対訳
- ムカッディマト・アル・アダブ – 中央アジアの多言語辞書
- モンゴル帝国の言語政策 – 帝国の多言語行政
最終更新: 2025年11月28日
執筆: Itako (itako999.com)
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