2025-12-09 · モンゴル語辞書の話

本記事は2009年5月1日の記事を全面改訂したものである。

概要

『モンゴル・ロシア・フランス語辞典』(Dictionnaire mongol-russe-français)は、19世紀のポーランド系ロシア人東洋学者、J.E.コワレフスキー(Józef Szczepan Kowalewski)によって編纂された全3巻の大著である。1844年から1849年にかけてカザン大学より出版された。

本辞典は、清朝の伝統的な分類辞書(『清文鑑』など)の成果を吸収しつつ、西洋の近代的な辞書編纂法を初めて適用した画期的な作品。収録語彙は仏教経典や歴史書などの古典文献から採録され、ロシア語とフランス語の対訳が付されている。その学術的精度の高さから、刊行から100年以上を経た20世紀半ばまで、世界中のモンゴル学者の標準参照文献として君臨した。

フェルディナント・レッシングの『モンゴル語大辞典』(1960年)も、本辞典を基礎として編纂されており、現代モンゴル学の直接的な礎石というべき存在である。

基本情報:

  • 正式名称: Dictionnaire mongol-russe-français
  • 編纂者: J.E.コワレフスキー (Józef Szczepan Kowalewski / Osip Mikhailovich Kovalevsky)
  • 刊行年: 第1巻(1844), 第2巻(1846), 第3巻(1849)
  • 出版地: カザン (Kazan University Press)
  • 言語構成: モンゴル語 – ロシア語 – フランス語
  • 巻数: 全3巻 (総ページ数2,690ページ)
  • 文字体系: 伝統モンゴル文字 (活字)
  • 電子版: HathiTrust, Google Books等で公開

編纂の背景

ポーランドの亡命者から東洋学の泰斗へ

コワレフスキー(1801-1878)は、ヴィリニュス大学で古典文献学を学んだポーランド人であった。しかし、学生時代の政治活動によりロシア当局に逮捕され、カザンへの追放処分を受ける。この「流刑」が、彼をモンゴル学の道へと導くことになった。

カザン大学で東洋語を学んだ彼は、1828年から1833年にかけて、ブリヤート、モンゴル、北京への長期調査旅行を行った。この際、現地のラマ僧から仏教知識を授かり、膨大な文献や辞書資料(『音漢清文鑑』や未刊の語彙集など)を収集した。

カザン学派の成立

帰国後、彼はカザン大学にロシア初(そして欧州初)のモンゴル語講座を開設した。本辞典の編纂は、大学での教育・研究活動の集大成であり、ロシアにおける科学的モンゴル学(カザン学派)の確立を象徴する事業であった。


内容と構成

辞書の構造

本辞典はアルファベット順(伝統モンゴル文字順)に配列されている。これは意味分類順であった清朝の『清文鑑』シリーズとは一線を画す、近代的な検索性を重視した構成である。

各見出し語には以下が含まれる:

  1. モンゴル文字: 活字による表記
  2. ロシア語訳: 詳細な語義
  3. フランス語訳: 西欧の学者向け対訳
  4. 用例・出典: 仏教経典や文学作品からの引用

資料源の多様性

コワレフスキーは、自身のフィールドワークで得た知識に加え、既存の辞書資料を広範に利用した。特に1717年の『御製満蒙合璧清文鑑』(HAMM)などの清朝官製辞書が主要なソースとなっていることが、近年の研究で明らかになっている。また、チベット語やサンスクリット語からの借用語、ブリヤート方言やカルムイク方言の情報も盛り込まれている。


言語学的価値

仏教語彙の宝庫

本辞典の最大の特徴は、仏教用語の記述が極めて充実している点である。コワレフスキー自身が仏教に深い造詣を持っていたため、単なる語義だけでなく、教義的な背景やサンスクリット語との対応関係も正確に記述されている。このため、仏教文献を読むためのツールとして、今日でもレッシング辞典と並行して利用される価値を持っている。

近代辞書学への橋渡し

本辞典は、東洋の伝統的な辞書(分類語彙集)と、西洋のアルファベット順辞書を融合させた点に意義がある。清朝の辞書から語彙を採録しつつ、それを西洋の言語学的方法論で再整理したことで、モンゴル語研究を「文献学」のレベルへと引き上げた。


影響と系譜

レッシング辞典への継承

1960年に刊行されたF.レッシングの『モンゴル語大辞典』は、コワレフスキー辞典を直接のモデルとしている。レッシング辞典の序文には、コワレフスキーの業績への敬意が表されており、多くの語義や用例が継承・改訂された。つまり、コワレフスキー辞典なくして現代の標準辞書は存在し得なかったのである。

現代における利用

初版から180年近く経過しているが、その価値は失われていない。特に、レッシング辞典には未収録の古語や稀語、あるいはロシア語による詳細な解説を参照するために、専門家は依然として本辞典に立ち返る必要がある。


写本の伝来とデジタル化

天津影印版(1941年)

原典の希少性に対応するため、1941年に天津で柯瓦莢夫斯基編『蒙俄法文合璧 蒙語大辞典』として影印版が刊行された。ただし、これは3巻セットのうち下巻のみで、”t”の項目以降(総1,574ページ)を収録している。

デジタルアーカイブ

21世紀に入り、Google Booksをはじめとする大規模デジタル化プロジェクトにより、本辞典は全文がオンラインでアクセス可能となった。現在では以下のプラットフォームで閲覧・ダウンロードが可能である:

  • HathiTrust Digital Library: 全3巻の高解像度スキャン
  • Google Books: 天津影印版下巻を含む複数版
  • Internet Archive: パブリックドメイン資料としての全文公開

この電子化により、従来は大規模図書館でしか閲覧できなかった本辞典が、世界中の研究者に開かれることとなった。特に2009年のGoogle Books和解成立以降、絶版資料のオンライン閲覧が制度的に整備され、本辞典のような19世紀文献の研究利用が飛躍的に容易になった。


関連項目


補注

本記事は2009年5月1日に初稿を公開し、当時はGoogle Booksでの天津影印版へのアクセス情報を中心とした短報であった。2025年の全面改訂では、辞書の学術的背景、言語学的価値、現代への影響を体系的に記述し、テンプレート基準に準拠した構成とした。


初稿公開: 2009年5月1日 全面改訂: 2025年12月9日 執筆: Itako (itako999.com)

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