掲載日: 2009年6月20日
分野: 歴史言語学、朝鮮語モンゴル語研究、文献学
はじめに
韓国で出版された『奎章閣資料叢書 語學編(八) 蒙語類解 捷解蒙語』(ソウル大学校奎章閣韓國學研究所, 2006)という影印本を入手した。これは18世紀に編纂された原本を現代に復刻したものである。これにより、『蒙語老乞大』、『捷解蒙語』、『蒙語類解』のいわゆる「蒙学三書」の影印本が揃ったことになる。
これらは、18世紀朝鮮王朝時代にハングルで記されたモンゴル語の教科書および辞書であり、東アジアにおける言語接触研究、歴史音韻論、そして多言語辞書編纂史の貴重な資料として位置づけられる。
蒙学三書の構成
1. 蒙語老乞大(몽어노걸대 Mong-eo Nogeoldae)
入手資料: 『國學資料第3輯 蒙語老乞大』(西江大学校人文科学研究所, 1983) – 18世紀原本の影印
原本刊行: 1741年(英祖17年) 蒙学官・李最大による初版刊行
主要改訂: 1766年(英祖42年) 李億成による重訂版、1790年(正祖14年) 方孝彦による重刊版
会話形式のモンゴル語教科書。漢語『老乞大』をモンゴル語に翻訳したもので、朝鮮時代における実用的なモンゴル語学習のために編纂された。日常会話から商取引、外交場面まで幅広い場面を扱う。全8巻8冊。
モンゴル文字表記の左側にモンゴル語、右側にハングルで発音が表記されている。17〜18世紀に定着・普及して現在まで中国の内蒙古で使用されるモンゴル語文語(古典モンゴル語)と類似しているが、当時の口語的要素や現代モンゴル語と同一の形態も多く見られる。
2. 捷解蒙語(첩해몽어 Cheophae Mong-eo)
入手資料: 奎章閣資料叢書 影印本(2006) – 18世紀原本の影印
原本刊行: 1737年(英祖13年) 李世烋による初版編纂
主要改訂: 1790年(正祖14年) 方孝彦による改訂
「捷解」とは「速やかに理解する」という意味で、モンゴル語学習の入門書的性格を持つ。全4巻1冊。当時の古いモンゴル語教習書である蒙語老乞大、守成事鑑など使用に適さなくなった5冊を廃し、捷解蒙語が公式の官撰モンゴル語教習書となった。
編纂背景には、1732年(英祖8年)に地平・南泰良がモンゴルの興盛を心配し、訳官たちのモンゴル語実力が不十分であることを憂慮したこと、さらに1737年5月14日に左議政・金在魯がモンゴル族の勃興に関連して訳官たちのモンゴル語駆使力が劣っていることを指摘したことがある。
興味深いことに、漢語教材を翻訳して編纂した蒙語老乞大とは異なり、捷解蒙語は満州語教材の翻訳であることが明らかになっている。
内容は大体が対話体で構成されているが、巻1の大部分と巻4の末尾部分は、それぞれ勧学に関する文章と手紙となっている。
3. 蒙語類解(몽어유해 Mong-eo Yuhae)
入手資料: 奎章閣資料叢書 影印本(2006) – 18世紀原本の影印
原本刊行: 1768年(英祖44年) 李億成による改訂刊行
主要改訂: 1790年(正祖14年) 方孝彦による再改訂
中国語を見出し語とし、朝鮮語とモンゴル語の対訳を示した三言語対照辞書。上巻・下巻・補編・語録解で構成され、計5,317項の語彙が収録されている。
上巻には「天文」「時令」「地理」など27門1,916項、下巻には「田農」「米穀」「菜蔬」など27門1,926項、補編には「天文補」「時令補」など48門1,475項が収録されている。
語彙の体系的分類により、当時の概念体系を知る手がかりとなる。中国語の『訳語類解』、満州語の『同文類解』、日本語の『倭語類解』などと類似した性格の語彙集である。
研究の歴史と現状
現在の研究動向
松岡雄太氏(九州大学)が、現在最も精力的に研究を進めている研究者である。日本モンゴル学会、韓国の国語学会においても活発に研究発表を行っており、蒙学三書研究の最前線に立っている。
先行研究
蒙語類解の研究
小沢重男 (1961)
「中・韓・蒙・対訳語彙集『蒙語類解』の研究 (1) : 朝鮮語と蒙古語との若干の音韵対応にもふれて」
『東京外国語大学論集』
本論文は『蒙語類解』研究の基礎を築いた重要な業績である。漢語を見出し語とするすべての語について、モンゴル語部分にローマ字転写を施し、現代モンゴル語、モンゴル語文語、日本語訳を対照的に示している。朝鮮語とモンゴル語の音韻対応関係についても言及しており、歴史音韻論研究の貴重な資料となっている。
蒙語老乞大の研究
井上治教授(島根県立大学)・金度亨氏 共同研究
「蒙語老乞大 テキストのローマ字転写と和訳」
『中國語學研究 開篇』(2002年以降、継続発表中)
2002年以来、各巻の転写ごとに毎年1本のペースで論文が発表されている。テキスト全体のローマ字転写と詳細な和訳により、『蒙語老乞大』の言語学的価値を明らかにする体系的な研究である。
その他の研究
竹内弘行 (1995)
「蒙学三書について」
『名古屋学院大学外国語学部論集』
未確認の文献ではあるが、タイトルから判断すると蒙学三書全体を扱った概説的論文の可能性がある。ただし、「蒙」の字が啓蒙の意味である可能性も否定できない。
最東権による現代語訳 (2009)
『訳注 蒙語老乞大』(ピオディワールド, ISBN 9788993664102)
最近の音韻研究 (2025)
形梅研「몽어유해(蒙語類解)의 ‘ㅅ, ㄷ’에 후행하는 ‘ㅎ’ 발음에 대하여」『몽골학』82号、現代モンゴル語母語話者の視点から18世紀モンゴル語の子音音韻変化を考察。
歴史的背景
蒙学三書の編纂は、朝鮮王朝の外交政策と密接に関連している。事大交隣を外交政策の基盤とした朝鮮は、建国後早くから外国語学習のために司訳院を設置した。司訳院では事大のために中国語を教育し(漢学)、交隣のためにモンゴル語(蒙学)、日本語(倭学)、女真語(女真学)を教育した。
1637年(仁祖15年)2月1日の記事には、「モンゴル人たちがまだ都城にいて人を害し物品を略奪する」との報告があり、清の将軍・龍骨大がモンゴル軍を都城外に追い出したことが記されている。このような歴史的経験から、朝鮮はモンゴル語教育に継続的に取り組んだ。
言語学的意義
音韻研究への貢献
ハングルという表音文字によってモンゴル語が転写されているため、以下の研究に有用である:
- 中期モンゴル語の音韻体系の復元 – 朝鮮語話者による聴覚的把握を通じた音価の推定
- 朝鮮語・モンゴ語間の音韻対応 – 言語接触における音韻適応のパターン分析
- 文語モンゴル語と口語の関係 – 書記言語と話し言葉の乖離の実態
特に、ハングルで表記された発音符号はモンゴル文字表記と異なる口語体が相当数見られる。例えば、モンゴル文字で「-yi」と表記された対格助詞が、現代モンゴル語音と同じ「기」で一貫して表示されている。
辞書編纂史における位置
三言語対照辞書という形式は、東アジアにおける多言語辞書編纂の伝統を示す重要な事例である。中国語を媒介言語として、朝鮮語とモンゴル語を結びつける方法論は、当時の言語教育・翻訳実践を反映している。
言語接触研究への示唆
同じ膠着語的性格を持つ韓国語とモンゴル語の対訳形式で構成されているため、近代国語の文法形態と意味を記述するのに役立つ。
高麗・朝鮮とモンゴル帝国・元朝・北元との長期にわたる政治的・経済的関係の中で、言語接触がどのように行われたかを知る手がかりとなる。
現代的意義
モンゴル語辞書編纂への示唆
歴史的な多言語辞書の編纂方法論は、現代のモンゴル語辞書制作においても参考になる。特に:
- 概念の体系的分類方法
- 訳語選定の基準
- 音韻情報の記述方式
- 学習者向け配列の工夫
言語資料のデジタル化
これらの歴史的文献をデジタル化し、検索可能なデータベースとして整備することは、今後の研究の発展に不可欠である。ローマ字転写、現代モンゴル語対照、詳細な注釈を付した電子テキストの構築が望まれる。
所蔵機関
現存する版本:
- 規章閣図書館(ソウル大学校)
- 東洋文庫(東京)
- 東京大学図書館
- 東京外国語大学附属図書館
- ガラム文庫
- パリ東洋語学校図書館
- 大英図書館
2007年5月には、当時のモンゴル大統領夫妻が『蒙語老乞大』を見るためにソウル大学校規章閣を訪問したという逸話もある。
今後の研究課題
- 三書の総合的比較研究 – 編纂時期、編纂目的、対象読者層の違いによる記述の差異の分析
- 他の東アジア言語資料との比較 – 中国や日本におけるモンゴル語資料との対照研究
- デジタル・コーパスの構築 – 検索・分析が容易な電子化資料の整備
- 現代モンゴル語研究への応用 – 歴史的変化の解明による現代語の深い理解
- 満州語資料との関係解明 – 捷解蒙語が満州語教材からの翻訳であることを踏まえた、清代東アジアの言語教育システムの総合的理解
おわりに
蒙学三書の完備により、朝鮮半島におけるモンゴル語学習・教育の全体像を把握する基盤が整った。これらの資料は、言語学のみならず、歴史学、文化人類学、教育史など、多様な分野における研究の出発点となるだろう。
今後、デジタル技術を活用した新たな研究手法の開発とともに、国際的な共同研究の進展が期待される。
キーワード: 蒙学三書、蒙語老乞大(몽어노걸대)、捷解蒙語(첩해몽어)、蒙語類解(몽어유해)、ハングル転写、歴史音韻論、多言語辞書、朝鮮モンゴル関係、奎章閣、文献学、司訳院
資料区分: 言語学研究アーカイブ、2009年