はじめに
木版印刷は、金属活字が普及する以前の東アジアにおいて、知識と文化を伝える主要な手段であった。モンゴル語文献の印刷史においても、木版本は数百年にわたって重要な役割を果たしてきた。本稿では、東京外国語大学附属図書館が所蔵する貴重なモンゴル語木版本コレクションを中心に、その歴史的・文化的意義について考察する。
モンゴルにおける印刷技術の黎明期
元朝期の印刷活動
モンゴルの印刷史は、13世紀の元朝期にまで遡る。イタリアの旅行家マルコ・ポーロは、フビライ・ハーンの宮廷近くに「貨幣工房」と呼ばれる施設があり、紙幣その他の印刷物が製作されていたと記録している。この時期、モンゴルでは既にパスパ文字をはじめとする独自の文字体系が開発され、印刷文化の基盤が形成されつつあった。
最古の印刷物
現存する最古のモンゴル語印刷物の一つとして、サキャ・パンディタ・クンガギャルツァンの『宝の蔵スバシド』(Subhāṣita-ratna-nidhi)のモンゴル語訳がある。1906年、フィンランドの旅行者が東トルキスタンで発見した断片を、フィンランドのモンゴル学者ラムステッドが1912年に研究し、これが13世紀のパスパ文字(方形文字)で印刷されたものであることを証明した。
この『スバシド』は、その後も繰り返し翻訳・出版された。13世紀末から14世紀初頭にソノム・ガラが翻訳したものを、18世紀末にチャハル・ゲシのロブサンチュルテムが再翻訳し、内モンゴルのツァガーン・オール寺院で木版印刷された。さらに1878-1879年には、注釈書『チャンドマニーの鍵』も刊行されている。
元朝期の主要印刷物
1305年、学僧チョイジン・オソルがインドの仏教哲学書『入菩提行論』(Bodhicāryāvatāra)を翻訳し、1312年に出版された。この書は1748年にグーシ・ビリグ・ダライによって再版されている。1330年頃には『七老人』という経典がモンゴル語訳され、2000部という当時としては驚異的な部数で印刷された。
モンゴル語印刷の技術史的変遷
モンゴル語の印刷技術は、以下のような段階を経て発展してきた。
元朝期〜清代(13世紀〜20世紀初頭) 木版印刷が主流。13世紀の孔子の教えを記した『聖諭広訓』が木版で印刷され、現在も北京故宮博物院に保存されている。特に清代北京で出版された「北京版」が代表的。
19世紀後半〜20世紀初頭 石版印刷の時期。木版から活版への過渡期として短期間存在。
1910年代以降 活版印刷が主流となり、現代的な出版形態へ移行。
この技術的変遷は、単なる印刷手法の進化にとどまらず、モンゴル文化圏における知識流通と教育システムの変容を反映している。
翻訳文献の伝統
著名な翻訳者たち
13世紀から19世紀にかけて、モンゴルには優れた翻訳者が輩出された。
- チョイジン・オソル(13-14世紀)
- グンガー・オソル(16世紀)
- ザヤ・パンディタ・ナムハイジャムツ(17世紀)―― 1648年にトド文字を創案し、1650-1662年の間に170冊以上をチベット語から翻訳
- チャハル・ゲシのロブサンチュルテム(18世紀)
- ノムトのリンチン(19世紀)
大蔵経の翻訳と出版
モンゴル文化史上最大の事業の一つが、チベット仏教大蔵経『甘珠爾』(カンギュル)と『丹珠爾』(タンギュル)のモンゴル語訳である。1636年から1725年にかけて、『甘珠爾』109巻、『丹珠爾』226巻が翻訳され、木版で6部印刷された。
グンガー・オソルは、この大事業において中心的役割を果たした。記録によれば、彼は『甘珠爾』第1巻の3、4、6、9-11冊を翻訳し、第2巻の3、4、6、7冊を編集したとされる。
翻訳文献の分類
翻訳文献は、世俗文献と宗教文献に大別できる。
世俗文献
- ダンディンの『詩学』(Kāvyādarśa)
- ナーガールジュナの『露滴論』
- インドの説話集『パンチャタントラ』
- 『宝の蔵スバシド』などの格言集
宗教文献
- 仏教哲学辞典類
- 『甘珠爾』『丹珠爾』の各部
- 『説話の海』(32の説話を収録)
モンゴル独自の著作活動
歴史文献
翻訳文献に加えて、モンゴル人自身による著作も豊富に残されている。
- 『モンゴル秘史』(1240年成立)―― モンゴル文学の最高傑作
- 『アルタン・トプチ』(金史、17世紀)
- 『シャラ・トゥージ』(黄史、17世紀)
- 『アルタン・エリヒ』(18世紀)
- 『ボロル・トリ』(水晶鑑、19世紀)
- 『エルデニーン・エリフ』(19世紀)
英雄叙事詩
- 『ゲセル・ハーンの物語』―― 1716年に最初の7章が印刷された
- 『ジャンガル』―― 1910年にトド文字で出版
- 『ウヴシ・ハーン太子の物語』
社会批判文学
封建制度や貴族階級を批判する文学も発展した。
- 『黄金の宮殿の扉の上の文書』
- 『二人の詐欺師の物語』
- 『九つの不幸を持つ孤児の栄華の書』
- イシダンザンワンジルの教訓詩
- インジナシの小説・物語
これらは手書き写本または木版で広く流布した。
中国古典の翻訳
18世紀には中国古典文学の翻訳も盛んになった。
- 『三国志演義』
- 『紅楼夢』(紅い部屋の夢)
- 『西遊記』(タンサン・ラマの西方紀行)
- 『聊斎志異』(リャオ・ザイジ)
特に『三国志演義』は何度も印刷され、モンゴル独自の作品のように普及した。
北京版モンゴル語文献の特徴
出版の背景
清代の北京は、モンゴル語文献出版の一大中心地であった。清朝政府は、多民族国家統治の一環として、モンゴル語による出版事業を積極的に支援した。この政策により、質の高い木版本が多数制作された。
主要なジャンル
北京版モンゴル語木版本の内容は、主に以下のジャンルに分類される。
対訳語彙集 漢語・満洲語・モンゴル語などの多言語辞書類。清朝の多言語行政を支える実用的な言語資料として機能した。代表的なものに『蒙古字清文鑑』がある。
仏典 チベット仏教経典のモンゴル語訳。宗教文化の伝播と信仰実践において中心的な役割を果たした。
これらの文献は、言語接触、翻訳実践、宗教文化交流といった、東アジア文化史研究における重要な一次資料である。
モンゴル国内の木版印刷所
大フレー(ウランバートル)の印刷所
イフ・フレー(大フレー、現在のウランバートル)のズーン・フレーのツォグチン・ダツァン配下に「イヒーン・スンブム」という木版印刷所があり、これがモンゴルの印刷中心地となった。革命前には1000種以上の版木が保管されており、そのうち30種以上がモンゴル語の書籍であった。主な出版物は以下の通り。
- 『モンゴル文字頭書』
- 『正書法規則』
- 宗教教理書
ウイゼン王の寺院(現アルバイヘール)
旧ウイゼン王寺院(現在のアルヴァイヘール)には、イフ・フレーに劣らぬ数の版木があり、100種以上がチベット語からの翻訳書であった。
紙幣の印刷
モンゴルの主要寺院の版木印刷所では、「チーズ」「ゾースの標章」などと呼ばれる紙幣も印刷していた。例えば、チン・スーセクト・ホビルガーンの寺院(現在のバヤンホンゴル県マンダル郡)では、「チーズ」という名称の1単位・10単位の紙幣を木版で印刷し使用していた。この寺院は300年以上前に創建され、紙幣の印刷は特別な計画に基づいて50年ごとに行われ、1917-1918年には第5回目の印刷が行われた。
特殊な印刷・装飾技法
多様な材料による書写
17世紀から19世紀にかけて、モンゴル人は木版印刷のほか、骨、銀などの素材に彫刻したり、様々な金属合金で書いたり、絹地に刺繍で縫い込むなどの技法を発展させた。
九宝材料による『甘珠爾』 現在モンゴル国立図書館に所蔵される最も貴重な文献の一つに、「九宝」と呼ばれる金・銀・珊瑚・水晶・瑪瑙・真珠・銅・鉄・真鍮の混合物で18世紀に書かれた『甘珠爾』がある。
純金による『丹珠爾』 19世紀には、純金で書かれたチベット語『丹珠爾』や、黒絹地に黄色い糸で刺繍された『イトゲル』(信仰書)も制作された。
銀板による『スンドゥイジュド』 モンゴル人職人ダグワらのグループは、『スンドゥイジュド』という経典を純銀の板に彫刻し、最初と最後の文字を黄金で装飾して留め金で固定した。この書は222ページからなり、総重量52.56kgの銀が使用された。
銅板による『八千頌般若経』 20世紀初頭、職人ボル・チュルテムとドゥンヒーン・シャルらは、銅板に彫刻した『八千頌般若経』1494ページを制作した。
革命前のモンゴル出版物の概況
革命前の写本・印刷本は膨大な数に上り、多様な主題を扱っていた。現在の図書館記録によれば、2320種以上の書名があり、その内訳は以下の通り。
- 歴史書:112種
- 歴史関連文献:422種
- 文学作品:124種
- 法律書:56種
- 言語学関連:61種
- 地理・経済学:514種
- 古代哲学・宗教宣伝:790種
- その他学問分野:193種
これらは、革命前のモンゴルの文化の多面性を研究する貴重な史料である。
外国学者による研究と出版
ロシアの学者たち
18世紀末から19世紀初頭にかけて、外国の学者たちがモンゴル文献の出版を開始した。
イサーク・シュミット 1829年にサガン・セチェンの『エルデニーン・トプチ』(宝史)のモンゴル語原文とドイツ語訳を出版。10年後には『ゲセル・ハーンの物語』のドイツ語訳とモンゴル語原文を出版。
ガルサン・ゴンボ ブリヤート・モンゴル人のゴンボは、モンゴル史・文学の出版に多大な貢献をした。19世紀後半に『アルタン・トプチ』、『ウヴシ・ハーン太子の物語』、『魔法の橋の物語』などを出版。
『モンゴル秘史』の研究史
『モンゴル秘史』は、世界の学者たちの関心を集めてきた。
- 1382年:中国語訳(ロシア人学者カファロフの記録による)
- 1866年:ロシアの学者A.P.カファロフが中国語版からロシア語に翻訳・出版
- 1897年:ロシアのモンゴル学者A.M.ポズドネーエフが最初の96章を石版で出版
- 1908年:中国の学者葉徳輝が出版
東京外国語大学附属図書館のコレクション
コレクションの形成史
東京外国語大学附属図書館のモンゴル語木版本コレクションは、以下のような経緯で形成された。
初期収集(1910年代〜1940年代) 当時の教官たちが北京で購入した約20点の北京版が基礎となった。この時期は、日本の東洋学・言語学研究が急速に発展していた時代であり、研究・教育資料としての需要が高まっていた。主な収集品は対訳語彙集と仏典で構成されていた。
COEプログラムによる拡充(2000年代初頭) 「史資料ハブ地域文化研究拠点」プログラムの予算により、以下の資料を追加購入した。
- 北京版モンゴル語木版本:6点
- ブリヤート版など:11点(ロシア帝国時代にシベリアで刊行)
これにより、総所蔵数は約40点に達し、世界有数のコレクションとなった。
ブリヤート版の意義
ブリヤート版木版本の収集は、モンゴル語印刷文化の地域的多様性を示す点で特に重要である。ロシア帝国支配下のシベリアにおけるモンゴル系民族の文化活動を物語る貴重な資料群といえる。特に19世紀末のアガ・ダツァン(寺院)では、ロブサンリンチンなどの学僧が『スバシド』を始めとする多くの書籍を再版した。
学術的・文化的意義
言語学研究の観点から
モンゴル語木版本は、以下の研究分野において重要な資料的価値を持つ。
歴史言語学 各時代の言語使用実態を反映する一次資料として、モンゴル語の通時的変化を追跡可能にする。特に13世紀のパスパ文字、ウイグル式モンゴル文字、17世紀のトド文字など、複数の文字体系の使用実態を知ることができる。
辞書学・語彙研究 対訳語彙集は、清代における多言語接触の実態と翻訳実践を解明する手がかりとなる。漢語・満洲語・モンゴル語・チベット語の四言語対照辞書は、東アジア言語接触研究の貴重な資料である。
文献学・書誌学 印刷技術、書物形態、流通経路など、物質文化としての側面からもアプローチ可能。版木の彫刻技術、紙質、装丁方法などは、東アジア書籍文化の比較研究に寄与する。
文化交流史研究への貢献
これらの木版本は、清代における漢・満・蒙・蔵の多民族文化交流、チベット仏教の東アジア的展開、ユーラシア規模での知識流通ネットワークなど、広範な研究テーマに関わる基礎資料である。
特にインド-チベット-モンゴルを経由する仏教文化の伝播経路、中国古典文学のモンゴル語圏への受容、さらには逆にモンゴル歴史書の中国語訳など、双方向的な文化交流の実態を解明する上で不可欠な史料群といえる。
図像・美術史研究
モンゴルの木版印刷は、単なる文字出版にとどまらず、図像芸術の発展にも寄与した。古くから織物の文様や絵画が発展していたが、仏教図像の多様な版画も制作された。特に「調和する四匹の動物」(ゾヒツサン・ドルヴン・アミタン)の版画は、モンゴルのみならず東方諸民族の間で広く流布し、のちにバンドン会議で採択された「平和五原則」の思想的基盤となった。
デジタル時代における木版本研究
アクセシビリティの向上
2003年の特別展示では、これらのコレクションの一部が公開され、展示パンフレットがウェブ上でも閲覧可能となった。デジタル化の進展により、物理的に遠隔地にある研究者も貴重資料にアクセスできる環境が整いつつある。
国際的な研究動向
モンゴル語木版本の研究は、現在、以下のような国際的な広がりを見せている。
- モンゴル国立図書館のデジタルアーカイブ化プロジェクト
- 内モンゴル大学モンゴル学研究センターの文献データベース
- ブリヤート科学センターの古文書研究
- 日本の複数の研究機関による共同研究
今後の展望
今後は、高精細画像によるデジタルアーカイブ構築、OCR技術を用いたテキストデータベース化、国際的な共同研究プラットフォームの整備などが期待される。また、AI技術を活用した文字認識や古文書解読の自動化も、研究の進展を加速させるだろう。
木版本の物理的保存と並行して、デジタル技術による知識の民主化が進めば、モンゴル語文献研究は新たな段階に入ることが期待される。
おわりに
モンゴルにおける木版印刷の歴史は、13世紀の元朝期から20世紀初頭まで、約700年にわたって継続した。この長い伝統の中で、翻訳文献と独自の著作活動が並行して発展し、豊かな文化遺産が形成された。
東京外国語大学附属図書館が所蔵するモンゴル語木版本コレクションは、この壮大な文化史の一端を今日に伝える貴重な遺産であり、言語学・歴史学・文化人類学・宗教学など多分野にわたる研究の基盤となる資料群である。
革命前のモンゴルには、2000種以上の印刷・写本が存在し、歴史・文学・法律・言語学・地理・経済・哲学・宗教など、あらゆる知的活動の痕跡が記録されていた。これらの文献が今後も適切に保存・活用され、新たな研究知見を生み出し続けることを期待したい。
ロシアの作家ヘルツェンの言葉が示すように、「人間の全生涯は書物と経典に書き留められる。氏族も、人々も、国家も消えてなくなるが、書物と経典は残る」のである。モンゴル木版本は、まさにこの普遍的真理を体現する文化遺産なのだ。
参考情報
展示情報 東京外国語大学附属図書館特別展示(2003年) パンフレット: http://www.tufs.ac.jp/common/library/guide/shokai/tenji4.pdf
主要参考文献
二木博史「木版文化の世界――北京版モンゴル語文献を中心に――」『Castalia = 知の泉(東京外国語大学附属図書館報)インターネット版第3号』2003年
Т. Содномдаржаа『モンゴル人民共和国出版小史』(Монгол ард улсын ном хэвлэлийн хураангуй түүх)国家出版委員会、ウランバートル、1965年
ヤ・ツェヴェル「モンゴルの出版について」『シンジレフ・ウハーン』(科学)誌、1946年第12-13号
関連研究
Б.Я. ウラジーミルツォフ『モンゴル社会史研究』 Б. シレンデブ『モンゴルにおける人民革命と教育』 Ш. ジャラン・アージャフ『25年の発展――数字と資料』 Г.М. ミハイロフ『モンゴル人民共和国の文化建設』
本稿は、東京外国語大学附属図書館の公開情報およびТ. Содномдаржааの歴史研究をもとに、モンゴル語木版本の学術的意義について総合的に考察したものである。
最終更新: 2025年11月
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