2025-11-28 · モンゴル語辞書の話

概要

『ムカッディマト・アル・アダブ』(Muqaddimat al-Adab)は、12世紀の神学者・言語学者ザマフシャリーが編纂したアラビア語学習辞書を基盤とし、14世紀から15世紀にかけて中央アジア(ホラズム地方)で多言語対訳化された文献である。原題は「文学への入門」を意味する。

本来はアラビア語・ペルシャ語辞書であったが、後の時代にチャガタイ語(テュルク語)とモンゴル語の行間注釈が付加された。これにより、本資料は中期モンゴル語、特に「ホラズム・モンゴル語」と呼ばれるイスラーム圏の変種を知るための第一級資料となった。アラビア文字による精密な音写は、漢字表記の『華夷訳語』では捉えきれない音韻的特徴を伝えている。

ニコライ・ポッペの記念碑的研究(1938年)以来、中期モンゴル語三大文献の一つとして位置づけられてきたが、近年のタシケントでの新写本発見や、日本・トルコ・中国での研究進展により、その評価はさらに高まっている。

基本情報:

  • 正式名称: Muqaddimat al-Adab (Introduction to Literature)
  • 原著者: マフムード・ザマフシャリー (al-Zamakhsharī, 1075-1144)
  • 多言語版成立: 14世紀〜15世紀(写本成立は1492年頃とされる)
  • 成立地: 中央アジア (ホラズム地方、あるいはブハラ)
  • 言語構成: アラビア語 – ペルシャ語 – チャガタイ語 – モンゴル語
  • 文字体系: アラビア文字
  • 主要写本: ブハラ写本、タシケント写本

編纂の背景

「神の隣人」ザマフシャリー

原著者のアブー・アル=カーシム・マフムード・イブン・ウマル・アル・ザマクシャリ(1075-1144)は、ホラズム地方ザマクシャル村出身の大学者である。ペルシャ語を母語としながらアラビア語に精通し、メッカに長期間滞在したことから「神の隣人(Jār Allāh)」という尊称で呼ばれた。

彼はクルアーン注釈書『カッシャーフ』をはじめ、文法学・語彙学・修辞学など60冊以上の著作を残した。「もしザマフシャリがいなければ、アラブ人は自分たちの母語の深淵を知ることはなかっただろう」と評されるほど、アラビア語学への貢献は多大であった。『ムカッディマト』は、非アラブ人のために書かれたアラビア語学習の入門書であった。

写本の発見と伝来

多言語化された写本の原本は14世紀頃に遡ると考えられるが、現存する主要な写本(ブハラ写本)は1492年の成立とされる。

この写本は長い間知られていなかったが、1926年、ウズベクの知識人アブドゥラウフ・フィトラト(Abdurauf Fitrat, 1886-1938)によってブハラで発見された。その後、エミールの宮廷図書館(革命後のアヴィツェンナ図書館)に収蔵され、ポッペの研究へとつながった。近年ではタシケントでも新たな写本が発見され、斎藤純男らのプロジェクトによって写真版が日本にもたらされている。


内容と構成

四行対訳の構造

典型的な写本レイアウトは、1行の太字のアラビア語(親テキスト)に対し、その下の行間に小文字で各言語の対訳が記される形式をとる。

  1. アラビア語: 原文
  2. ペルシャ語: 当時の共通語
  3. チャガタイ語: 中央アジアのテュルク語
  4. モンゴル語: 行間注釈

語彙の配列

語彙は文法カテゴリーと意味によって体系的に分類されている。

  • 名詞の部(人体、親族、動物、自然など)
  • 動詞の部
  • 助詞の部
  • 語形変化の部
  • 名詞変化の部

文例とVOS語順

本辞書は単語だけでなく豊富な文例を含むが、モンゴル語訳の語順はしばしばVOS(動詞-目的語-主語)となっている。これはモンゴル語の自然な語順(SOV)ではなく、アラビア語の原文を逐語的に翻訳した結果である。この特性により、統語論的な研究には注意を要するが、語彙の対応関係は非常に明確である。


言語学的価値

アラビア文字転写の精度

『華夷訳語』(漢字音写)や『モンゴル秘史』(漢字音写)と比較して、アラビア文字による表記は以下のような点で音韻研究に貢献している。

  • 母音の長短: 長母音の表記により、当時のモンゴル語のアクセントや母音の質を推定可能。
  • 子音の区別: k/q, g/ġ の区別が明確であり、口蓋化や摩擦音化のプロセスを追跡できる。
  • 語末母音: アラビア文字の特性上、語末の母音表記(アリフやハーによる書き分け)に関する詳細な分析が可能である(斎藤 2000)。

ホラズム・モンゴル語の特徴

本資料の言語は、元朝大都の「官話」とは異なる、イスラーム圏中央アジアのモンゴル語変種(ホラズム・モンゴル語)である。

  • テュルク語の影響: 語彙や文法におけるチャガタイ語との干渉。
  • イスラーム語彙: 仏教用語が見られず、イスラーム関連語彙が含まれる。

研究史

ポッペによる基礎の確立

ニコライ・ポッペ(Nicholas Poppe)は、1938年の主著『ムカッディマト・アル・アダブ モンゴル語辞典』において、モンゴル語とトルコ語部分を抽出し、徹底的な分析を行った。これは今日でも本資料研究の出発点である。

トルコ・日本・中国での展開

トルコ: アフメト・ゼキ・ヴェリディ・トガンは、ホラズム語訳を含む研究を行い(1951)、中央アジア文化史の文脈で本資料を位置づけた。

日本: 斎藤純男らはタシケント写本の調査を行い、詳細な文字・音声の研究を発表している。特に語末母音の表記に関する分析は、中期モンゴル語音韻論に新たな知見をもたらした。

中国: 内モンゴルの保朝魯は、ポッペの研究を漢訳・整理し、中国語圏の研究者に資料を開放した。


復刻版と研究文献

原典・一次資料

  • Poppe, Nicholas N. Mongol’skij slovar’ Mukaddimat al-Adab, I-II. Moscow-Leningrad, 1938.
  • Togan, Ahmed Zeki Velidi. Muqaddimat al-adab: with the translation in Khorezmian. Istanbul, 1951.

主要研究文献

欧文:

  • Poppe, N. “Eine viersprachige Zamaxsharii-Handschrift.” ZDMG 101 (1951).
  • Poppe, N. “Zur mittelmongolischen Kasuslehre.” ZDMG 103 (1953).

和文:

  • 斎藤純男「Монгольский словарь Мукаддимат ал адаб: a/b」『東京学芸大学紀要』50/52 (1999/2001).
  • 斎藤純男『中期モンゴル語の文字と音声』松香堂書店、2003年.
  • 菅野裕臣・斎藤純男「4言語対訳ムカッディマト・アル・アダブの写本調査」『日本モンゴル学会紀要』35 (2005).

中文:

  • 保朝魯『漢訳簡編-穆[ka]迪瑪特蒙古語詞典』内蒙古大学出版社、2002年.

関連項目


最終更新: 2025年11月28日
執筆: Itako (itako999.com)

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