概要
デンマーク王立図書館(Det Kongelige Bibliotek)は、約650点のモンゴル語古文書を所蔵する欧州有数のモンゴル学研究拠点である。コレクションの核心は1930年代にデンマーク人学者クリステンセンがモンゴルから持ち帰った17-18世紀の写本群であり、仏教経典、民話集、行政文書、地図など多様な資料を含む。これらは東洋コレクション中央アジア部門に分類され、Walther Heissigらによる印刷カタログ(1971年)と検索可能なデジタル版が整備されている。
本コレクションは中期モンゴル語から近代への移行期の言語資料として、音韻・語彙・文法研究に不可欠である。同時に、清朝期のモンゴル社会の宗教実践、口承文学、行政制度を伝える歴史資料としても価値が高い。特にチャハル地方民話集(Mong. 406)や外藩理藩院則例(Mong. 74)は、文学研究と清朝藩部統治研究の基礎資料である。
2009年当時、Adobe Flash技術を用いたページめくり型デジタル閲覧システムが導入され、視覚的に魅力的な閲覧体験を提供した。現在ではより汎用的なデジタル閲覧環境に移行し、REXカタログ検索、COMDC専門カタログ、閲覧室での原本閲覧など、多様なアクセス方法が整備されている。2010年のモンゴル大統領訪問は、文化遺産の国際的保存と学術協力の象徴的出来事となった。
基本情報:
- 所蔵機関: デンマーク王立図書館(Det Kongelige Bibliotek / Royal Danish Library)
- 所蔵規模: 約650点(写本・木版本・印刷本・地図)
- 収集時期: 主に1930年代(クリステンセンによる)
- 時代: 17世紀~20世紀初頭
- 分類: 東洋コレクション中央アジア部門
- 主要カタログ: Heissig et al. (1971), COMDC
- デジタルアクセス: REX検索システム、閲覧室直接閲覧
コレクション形成の歴史
クリステンセンによる収集(1930年代)
デンマーク王立図書館のモンゴル語コレクションの大部分は、1930年代にモンゴルを訪れたデンマーク人学者クリステンセン(Kristensen)によってもたらされた。クリステンセンはモンゴル各地の寺院や個人所蔵者から多数の写本を収集し、デンマークに持ち帰った。これらの写本は当時のモンゴル社会の生活様式、会計記録の方法、宗教実践など多様な側面を伝えている。
1930年代はモンゴル人民共和国の社会主義体制確立期にあたり、多くの寺院が閉鎖され、写本が散逸する危機にあった。クリステンセンの収集活動は、結果的にこれらの資料をモンゴル国内の政治的変動から守る役割を果たした。
東洋コレクションの位置づけ
モンゴル語資料は、デンマーク王立図書館の「東洋コレクション(Oriental Collection)」中央アジア部門に分類されている。東洋コレクションは以下の5地域区分で構成される:
- 近東: アラビア語、ペルシア語、トルコ語
- 中央アジア: チベット語、モンゴル語、満洲語
- 南アジア: サンスクリット、ヒンディー語、タミル語
- 東南アジア: パーリ語、タイ語、シンハラ語
- 東アジア: 中国語、日本語、韓国語
この分類は19世紀以来の欧州東洋学の地域区分を反映している。中央アジア部門にはチベット語書籍1,650点、モンゴル語書籍180点が含まれ、内陸アジア仏教文化圏の研究拠点を形成している。
コレクションの構成と主要資料
所蔵規模
デンマーク王立図書館のモンゴル語コレクションは約650点の資料を所蔵する。内訳は以下の通り:
- 写本: 17-18世紀のモンゴル語手稿
- 木版本(xylographs): チベット仏教経典、歴史書
- 印刷本: 19-20世紀初頭の出版物
- 地図: 1903年のセツェン・ハン・アイマグ地図など
主要資料の例
Mong. 417: モロン・トイン物語
目連尊者(Maudgalyāyana)の地獄下降を描いた挿絵入り写本である。仏教説話の視覚的表現として貴重であり、モンゴルにおける仏教図像の受容と変容を研究する基礎資料となっている。目連尊者説話は中国・チベット・モンゴルで広く流布し、各地域で独自の図像表現が発展した。
Mong. 56: ラマ教祈祷文集
仏教の祈祷文と教訓的著作を収録した文献集である。実際の宗教実践で使用された祈祷文の文例を含み、モンゴル仏教の典礼研究に不可欠な資料である。
Mong. 406: チャハル地方の民話集
1938-1939年に収集された16編の民話を含む。モンゴル口承文学研究の基礎資料であり、20世紀前半の民話収集運動の成果を示す。チャハル地方(現在の内モンゴル自治区中部)の方言的特徴を反映しており、方言学的にも重要である。
Mong. 74: 外藩理藩院則例(満洲語・モンゴル語)
清朝の理藩院(モンゴル・チベット統治機関)の行政規則を満洲語とモンゴル語で記録した文書である。清朝の藩部統治システムを知る第一級史料であり、多言語行政の実態を示す。満洲語とモンゴル語の対照により、行政用語の翻訳実践も明らかになる。
Mong. 96: 大學(モンゴル語・満洲語訳)
儒教経典『大学』のモンゴル語訳(Amba tacin bithe)および満洲語訳である。清朝による儒教思想のモンゴル・満洲への伝播政策を示す資料であり、東アジアにおける儒教受容の多様性を研究する手がかりとなる。
エルデニーン・エルヒ(1835年)
僧侶が数珠を繰りながら唱える経文を記録した写本である。宗教実践の実態を伝える貴重な資料であり、口承と文字記録の関係を考察する材料を提供する。
セツェン・ハン・アイマグ地図(1903年)
山々、河川、寺院、ゲルの位置を示した地図である。20世紀初頭のモンゴル社会の空間構造を視覚的に示す。遊牧民の移動パターン、寺院経済の地理的基盤、行政区画の実態を研究する基礎資料である。
学術的価値
歴史言語学への貢献
17-18世紀のモンゴル語写本は、中期モンゴル語から近代への移行期の言語資料として以下の研究に貢献する:
音韻研究: 書記モンゴル語と実際の発音の関係、方言的特徴の分析が可能である。たとえばチャハル方言民話集は、内モンゴル東部方言の音韻的特徴を反映する。
語彙研究: 仏教用語、行政用語、日常語彙の歴史的変遷を追跡できる。清朝期の満洲語・中国語からの借用語の流入過程も明らかになる。
文法研究: 文語文法と口語文法の差異、格助詞・後置詞の使用法の変化を観察できる。
方言研究: 各写本の書記者の出身地域により、方言的特徴が文字表記に反映される場合がある。
文学・宗教研究への貢献
仏教文献研究: チベット語原典からモンゴル語への翻訳過程、モンゴルにおける仏教概念の受容と変容を研究できる。
口承文学研究: チャハル民話集は20世紀前半の民話収集運動の成果であり、口承文学の文字化プロセスを示す。
宗教実践研究: 祈祷文集や経文写本は、文献上の教義と実際の宗教実践の関係を明らかにする。
歴史学・社会史への貢献
清朝藩部統治: 理藩院則例などの行政文書は、清朝の多民族統治システムの実態を伝える。
寺院経済: 会計記録や寄進記録は、モンゴル仏教寺院の経済基盤を明らかにする。
社会構造: 地図や行政文書は、遊牧社会の空間構造と移動パターンを示す。
デジタル化とアクセス方法
2009年当時の技術的環境
2009年の時点で、デンマーク王立図書館はAdobe Flash技術を用いたデジタル閲覧システムを導入していた。このシステムは以下の特徴を持った:
視覚的魅力: ページをめくるような動的な閲覧体験を提供した。
技術的制約: Flashバージョンの違いにより、一部の資料が正常に表示されない問題があった。モバイル端末での閲覧にも制約があった。
当時のデジタルコレクションURL: http://www5.kb.dk/en/nb/samling/os/central/digcentral.html (現在は構成変更)
現代のアクセス方法(2025年)
現在、デンマーク王立図書館のデジタルコレクションは以下の方法でアクセス可能である:
1. REXオンラインカタログ検索
図書館システムREXで物理資料とデジタルリソースを横断検索できる。モンゴル語資料は”Oriental Collection”→”Central Asia”で絞り込み検索が可能である。
2. COMDC(Catalogue of Oriental Manuscripts in Danish Collections)
東洋写本専門カタログであり、デンマーク国内の複数機関所蔵の東洋写本を統合検索できる。詳細な書誌情報と内容記述を含む。
3. Research Reading Room(Black Diamond)での直接閲覧
原本閲覧には以下の手続きが必要である:
- 事前予約(オンライン予約システム)
- 閲覧室IDカードの取得
- 資料請求(事前にカタログで請求番号を確認)
4. 複製・撮影の依頼
研究目的であれば、スキャンやデジタル複製の依頼が可能である。著作権・所蔵機関の規定に従い、申請が必要である。
学術カタログ
モンゴル語写本の印刷カタログは以下の通り:
Heissig, Walther et al. Catalogue of Mongol books, manuscripts and xylographs [COMDC 3] København: Det Kongelige Bibliotek, 1971
このカタログは検索可能なPDF形式でも提供されており、研究者の基本参照資料となっている。
モンゴル大統領の訪問(2010年)
2010年10月、当時のモンゴル大統領ツァヒアギーン・エルベグドルジがデンマーク訪問中にデンマーク王立図書館を訪れ、17-18世紀のモンゴル語写本コレクションを視察した。
この訪問は以下の意義を持つ:
文化外交: モンゴルの文化遺産が海外機関に保存されていることへの認識と、国際的な学術協力の重要性を象徴した。
学術交流の促進: デンマーク・モンゴル間の学術交流を強化する契機となった。
文化遺産保護: 1930年代にクリステンセンが救出した写本群が、モンゴル国内の政治的変動を生き延びたことの歴史的意義が再認識された。
国際的文脈と比較
世界の主要モンゴル語コレクション
米国議会図書館(Library of Congress)
約600巻のモンゴル語稀覯書・写本を所蔵する。William Woodville Rockhill Collection(1893-1901年寄贈)とBerthold Laufer Collectionが核心である。モンゴル語版カンギュル(Ganzhuur, 108巻)・タンギュル(Danzhuur, 226巻)を含む。
ロシア東洋学研究所(サンクトペテルブルク)
世界最大規模のモンゴル語写本コレクションを誇る。19世紀の中央アジア探検により収集された資料が中核である。
中国国家図書館・内モンゴル図書館
清代宮廷所蔵のモンゴル語文献と、地方寺院旧蔵の経典類を所蔵する。
モンゴル国立図書館・科学アカデミー
モンゴル国内の寺院・個人旧蔵資料を所蔵する。20世紀の政治的変動を生き延びた文献が含まれる。
デンマークコレクションの特色
デンマーク王立図書館のコレクションは規模では上記機関に及ばないが、以下の特色を持つ:
時代的集中: 17-18世紀の写本に焦点が当たっており、中期モンゴル語研究に適している。
多様性: 仏教経典、民話、行政文書、地図など多様なジャンルをバランス良く含む。
アクセス容易性: 欧州における地理的アクセスの良さと、整備されたデジタル環境が研究を促進する。
デジタルヒューマニティーズの展望
国際的デジタルアーカイブの統合
世界各地に分散するモンゴル語古文書のデジタル化が進められているが、以下の課題が残る:
メタデータの標準化: 各機関が独自の分類を用いているため、横断検索が困難である。Dublin Core、TEI(Text Encoding Initiative)などの国際標準の採用が求められる。
OCR・文字認識技術の開発: 伝統モンゴル文字の自動認識は依然として技術的課題である。機械学習による文字認識精度の向上が期待される。
国際共同データベースの構築: 分散する資料を統合的に検索できるプラットフォームの構築が必要である。
オープンアクセス化の推進: 研究目的での利用を容易にするライセンス整備が求められる。
新たな研究手法
デジタル化により以下の研究手法が可能となる:
コーパス言語学的分析: 大量のテキストから語彙頻度、コロケーション、文法パターンを統計的に分析できる。
テキストマイニング: 文献間の関係性、引用パターン、概念の分布を自動抽出できる。
3D技術: 写本の物理的特徴(紙質、製本、損傷状態)を3Dスキャンで記録できる。
クラウドソーシング: 市民科学(citizen science)の手法により、翻訳・注釈の集積が可能となる。
現代的意義
モンゴル学研究拠点としての役割
デンマーク王立図書館は、欧州におけるモンゴル学研究の重要な拠点の一つである。1930年代のクリステンセンによる収集から現代のデジタル化まで、約1世紀にわたる学術的蓄積がここに結実している。
文化遺産保護の教訓
1930年代のクリステンセンによる収集活動は、結果的にモンゴル国内の政治的変動から文化遺産を守る役割を果たした。この歴史は、文化遺産の国際的な保存と共有の重要性を示している。同時に、文化遺産の「所有」と「保護」をめぐる倫理的問題も提起する。
国際学術協力の促進
2010年のモンゴル大統領訪問に象徴されるように、デンマークとモンゴル間の学術交流は継続している。デジタル技術の発展により、物理的距離を超えた国際共同研究が促進されている。
関連項目
- 米国議会図書館のモンゴル語コレクション – 米国最大のモンゴル語資料群
- ロシア東洋学研究所の中央アジア資料 – 世界最大規模のコレクション
- デジタルアーカイブとモンゴル学 – デジタル化の現状と課題
- モンゴル語写本研究入門 – 写本の読解と分析
補注
アクセス情報
デンマーク王立図書館 住所: Søren Kierkegaards Plads 1, 1221 Copenhagen K, Denmark ウェブサイト: https://www.kb.dk/
Research Reading Room(Black Diamond) 開館時間: 月-金 9:00-19:00, 土 10:00-17:00 要事前予約、閲覧室IDカード必須
オンラインカタログ:
- REX: https://rex.kb.dk/
- COMDC: 図書館ウェブサイトから検索可能
主要研究文献
Heissig, Walther et al. Catalogue of Mongol books, manuscripts and xylographs [COMDC 3] København: Det Kongelige Bibliotek, 1971
デンマーク・モンゴル学術交流史: (関連研究文献は今後の調査により追加予定)
最終更新: 2025年11月28日
執筆: Itako (itako999.com)
本記事は itako999.com/linguistics/ の言語学コンテンツの一部です。モンゴル語資料のデジタルアーカイブについては、デジタルヒューマニティーズとモンゴル学もご参照ください。