『同文韻統』は18世紀における最も野心的な多言語音韻プロジェクトの一つだ。梵字、チベット文字、満州文字、蒙古文字、漢字という五種の文字体系の音韻的対応関係を体系的に整理したこの文献は、清朝の広大な帝国における言語的・文化的統合のビジョンを示している。
書誌情報
章嘉呼図克図(Changkya Hutuktu)によって乾隆十四年(1749年)に編纂された体系的な音韻対照表。『欽定同文韻統』または『御製同文韻統』とも称され、6巻本と8巻本の二つの版本が存在する。単なる翻訳辞典を超えて、清朝の「大一統」理念を言語標準化によって実現しようとした試みである。
筆者が参照しているのは、台湾の新文豊出版公司が民国67年(1978年)に刊行した『同文韻統六巻』の影印本で、清朝原版に基づく単行本として流通している。
編纂者:章嘉呼図克図(三世)
章嘉活仏系統の歴史的位置
章嘉呼図克図(1717-1786、在位:1723-1786)は、清代内モンゴル地区におけるチベット仏教ゲルク派(黄教)最高位の活仏(転生ラマ)で、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマ、ジェプツンダンバ・ホトクトと並ぶチベット仏教四大活仏の一人だ。
章嘉活仏の系統は元代に遡る。初代は俗姓を張家といい、後に章嘉と改名した。「呼図克図」(ホトクト、Hutuktu)はモンゴル語で「聖者」を意味し、高位のラマに対する敬称である。母寺は青海省の佑寧寺(かつての郭隆寺)に置かれた。
三世章嘉ロルペードルジェの生涯
『同文韻統』を編纂した三世章嘉活仏ロルペードルジェ(若必多吉、Rolpai Dorje)は、康熙帝(在位:1662-1722)、雍正帝(在位:1723-1735)、乾隆帝(在位:1736-1795)という三代の皇帝に仕えた。
特に乾隆帝とは幼少期から親交があり、雍正帝の宮廷で共に教育を受けた学友でもあった。この特別な関係により、章嘉活仏は清朝宮廷における最も重要なチベット仏教指導者としての地位を確立し、チベット、中国、モンゴル三地域の関係調整において決定的な役割を果たした。
稀有な多言語学者
ロルペードルジェは、チベット語、満州語、中国語、モンゴル語の四言語に通暁した稀有な多言語話者であり、学者でもあった。大蔵経(三蔵)全体のモンゴル語、中国語、満州語への翻訳事業を組織し、乾隆朝の宗教建築や寺院設計にも深く関与した。『同文韻統』はこうした多言語的・文化横断的な知的活動の集大成の一つである。
清朝の多文字政策
「大一統」理念と文字統合
清朝は満州族による征服王朝でありながら、漢族、モンゴル族、チベット族、ウイグル族など多様な民族を統治する多民族帝国だった。この統治を正当化し安定させるため、清朝は「大一統」——「天下は一つ」という理念を掲げた。
文字と言語の次元でこの理念を実現する試みは、元朝における八思巴文字(ʼPhags-pa script、パスパ文字)の創出に見られる。1269年、クビライ・カーンはチベット僧パクパに命じて、モンゴル語、中国語、チベット語、ウイグル語など帝国内の諸言語を統一的に表記できる新文字を作成させた。清朝の『同文韻統』は、この元朝の試みを継承し、さらに発展させたものだ。
満州文字と多言語翻訳事業
清朝は建国初期から、満州文字を政治的正統性の象徴として重視した。1599年、ヌルハチは満州語を表記するためモンゴル文字を改良し、1632年にはダハイが点と円の区別記号を加えて曖昧性を解消した(tongki fuka sindaha hergen「点と円を付した文字」)。さらに1730年には、仏典翻訳のために満州文字アリガリ体(Manchu ali-gali script)が創出され、サンスクリットやチベット語の音声を精密に表記できるようになった。
乾隆帝の時代には、『五体清文鑑』という満州語、チベット語、モンゴル語、ウイグル語、中国語の五言語辞典や、『大蔵経』の満州語・モンゴル語訳など、大規模な多言語翻訳プロジェクトが推進された。『同文韻統』はこうした文化政策の中核を成す文献である。
構成と内容
全六巻からなり、各巻は特定の音韻学的主題に特化している。
第一巻:天竺字母譜
「天竺字母譜」として、梵字(悉曇文字)、チベット文字、満州文字、蒙古文字(アリガリ文字を含む)、漢字の五種文字の基本字母(アルファベット)の対応表を収録。
「天竺」はサンスクリット語の起源地であるインドを指す古称だ。サンスクリット文字(デーヴァナーガリー文字ないし悉曇文字)を起点として、各文字体系の音韻的対応関係が整理されている。仏教経典の翻訳において不可欠な基礎知識であり、多言語間の音韻変換の基準を提供する。
第二巻:天竺音韻翻切配合十二譜
サンスクリット音韻の「翻切」(fanqie)——中国伝統音韻学における反切法、すなわち二つの漢字を用いて別の漢字の発音を示す方法——を用いた対照表を十二の表に分けて提示。
サンスクリット語の音節構造を中国語の音韻体系に翻訳する技法を体系化したもので、仏典漢訳の長い伝統を背景としている。
第三巻:チベット文字の重子音
主にチベット文字の重子音(consonant clusters)についての詳細な分析表からなる。チベット語は語頭・語中に複雑な子音連続を持ち、これを他の文字体系でどう表記するかは翻訳上の大きな課題だった。
チベット文字と満州文字、蒙古文字、漢字の対応関係が精密に整理されている。チベット仏教経典の満州語・モンゴル語訳において実用的に不可欠な資料だった。
第四巻:天竺西番陰陽字譜
「天竺西番陰陽字譜」として、以下の項目を含む:
- 「天竺音韻十六字」:サンスクリット語の十六の基本音韻
- 「天竺翻切三十四字」:サンスクリット語の三十四の翻切音
- 「西番字母三十字」:チベット文字(「西番」はチベットの古称)の三十字母
- これらのチベット文字、満州文字、蒙古文字、漢字の対応表
興味深いことに、この巻の表中には梵字が含まれていない。第一巻ですでに梵字の基本字母が提示されているため、重複を避けたものと考えられる。
第五巻:大蔵経字母同異譜
「大蔵経字母同異譜」として、仏典翻訳史における字母表記の異同を比較検討。中国語、チベット語、モンゴル語、満州語で翻訳された大蔵経において、サンスクリット原典の音がどのように異なって転写されてきたかを整理している。
音韻学的な通時的研究の側面を持ち、翻訳史と音韻史を交差させる先駆的な試みといえる。
第六巻:漢字音韻の詳細
表音字として用いられた漢字と、個々の発音についての詳細な解説。中国語の反切法や韻書の伝統を踏まえ、漢字がいかにして他言語の音を表記するために援用されてきたかを論じている。
サンスクリット語やチベット語の音を漢字で転写する「音訳」の技法の総括でもあり、漢訳仏典の音韻学的基礎を提供する。
歴史言語学的意義
18世紀中葉の音韻資料
『同文韻統』は、18世紀中葉におけるサンスクリット語、チベット語、モンゴル語、満州語、中国語の音韻体系を同時に記録した、きわめて貴重な歴史言語学的資料である。
特に満州語に関しては、清朝宮廷で話されていた満州語の音韻を知る上で一次資料としての価値が高い。また、モンゴル語のアリガリ文字体系の実例を豊富に含む点でも重要だ。
音韻対照と翻訳理論
単なる文字対照表ではなく、音韻的に異なる言語間でいかにして「等価」な音を見出し、対応させるかという翻訳理論の実践例である。現代の音声学・音韻論における「音素対応」や「音韻写像」の概念を、18世紀の知的枠組みで先取りしているとも言える。
文字体系の類型論的比較
梵字とチベット文字はアブギダ(音節文字)、満州文字とモンゴル文字はアルファベット、漢字は表意文字(語素文字)という、全く異なる文字類型を持つ。これらを同一の音韻的基準で対照させる作業は、文字体系の類型論的比較研究の先駆ともなっている。
影響と遺産
清朝の言語・教育政策への影響
『同文韻統』は、清朝の官僚養成機関である国子監や各地の学堂において、多言語教育の基礎教材として活用された。満州族、モンゴル族、チベット族の官僚候補生は、この対照表を用いて相互の言語と文字を学習した。
また、仏教寺院における経典学習においても、チベット語経典を満州語やモンゴル語で理解するための必携の参考書となった。
近代音韻学への影響
19世紀末から20世紀初頭にかけて、西洋の音声学・音韻学が中国に導入される中で、『同文韻統』は中国語音韻史研究の重要な参考文献として再評価された。特に清末の音韻学者・言語学者たちは、この書を通じて多言語比較音韻論の視座を得た。
現代の中国音韻学、チベット語研究、満州語研究、モンゴル語研究においても、『同文韻統』は18世紀の音韻状況を知るための基本文献として引用され続けている。
東アジア多文字文化圏における位置づけ
「同文」概念の拡張
「同文」という語は、『礼記』に由来する古典的概念で、「同じ文字を用いる」ことが文化的統一の象徴とされてきた。しかし『同文韻統』における「同文」は、漢字のみならず、梵字、チベット文字、満州文字、蒙古文字をも包摂する、より広義の「文字的共通性」を意味している。
これは漢字文化圏(中華文化圏)の枠組みを超えた、アジア多文字文化圏の構想とも読める。清朝は満州族の王朝として、漢字中心主義を相対化し、複数の文字と言語が共存する多元的な文化秩序を実現しようとした。
音韻を通じた文化的翻訳
『同文韻統』は、文字の対応を通じて、異なる文化圏の音韻世界を相互に翻訳可能にする試みだった。サンスクリット語(仏教の原典言語)、チベット語(チベット仏教の言語)、モンゴル語(遊牧民の言語)、満州語(征服王朝の言語)、中国語(東アジア文明の古典的言語)——これら五つの言語世界を、音韻という普遍的次元で結びつけることが、『同文韻統』の究極的な目的だった。
現代的意義と今後の研究課題
デジタル人文学的アプローチの可能性
現代のデジタル技術を用いれば、『同文韻統』のデータベース化、音韻対照表の電子化、さらには音声合成による各文字の「発音復元」も可能だ。これにより、18世紀の音韻体系をより正確に理解し、歴史音韻学の精度を飛躍的に高めることができる。
多言語教育への示唆
『同文韻統』は、異なる文字体系・音韻体系を持つ言語を、音韻的対応を基準として体系的に教授する手法の原型を示している。現代の多言語教育、特に漢字、ハングル、仮名などアジア諸文字の教育において、この歴史的知見は応用可能である。
未解決の研究課題
- 『同文韻統』8巻本と6巻本の異同の精査
- 編纂過程における章嘉活仏の協力者・学者集団の特定
- 同時代の他の多言語音韻文献(『五体清文鑑』など)との比較研究
- 『同文韻統』が清朝の実際の翻訳実務にどの程度影響を与えたかの実証的検討
まとめ
『同文韻統』は、18世紀清朝における多民族・多言語統治の理念を、音韻学と文字学の次元で具現化した記念碑的著作である。編纂者である三世章嘉活仏ロルペードルジェの多言語的学識と、乾隆帝の文化的野心が結実したこの文献は、単なる音韻対照表にとどまらず、異なる文字世界を横断する知的架橋として、今なお重要な歴史的・言語学的価値を持ち続けている。
東アジアの多文字文化圏の歴史を理解し、現代の多言語共生社会のあり方を考える上で、『同文韻統』の遺産は再評価されるべきだ。
参考文献
- 新文豊出版公司(編)(1978)『同文韻統六巻』影印本、台北:新文豊出版公司
- Stary, Giovanni (2004). “An Unknown Chapter in the History of Manchu Writing: The ‘Indian Letters’ (tianzhu zi 天竺字)”. Central Asiatic Journal 48(2): 280-291.
- Kao, Hsiang-Tai (2022). “From the Sanskrit-Tibetan transliteration system to the Mongolian and the Manchu ali-gali script”. In Corff, Oliver (ed.), Religion and State in the Altaic World, pp. 65-74. Berlin: De Gruyter.
初出:2007年8月27日(itako999.com)
改訂増補版:2025年11月