2025-12-01 · 歴史

概要
元朝(1271-1368)は、モンゴル帝国の大ハーン・フビライが中国全土を統一して建国した征服王朝であり、モンゴル語・漢語・チベット語・ウイグル語・ペルシャ語など多様な言語が併存する多言語帝国だった。人口比でわずか数%のモンゴル人が、圧倒的多数の漢人を支配するため、モンゴル語を「国語(guyu / 國語)」と定めつつ、漢語を実務言語として併用し、パスパ文字を「国字(guozi / 國字)」として創制した。この言語政策は、モンゴル人の政治的優位を維持しながら、漢人官僚機構を活用するための精緻な設計であった。
元朝言語政策の最大の特徴は、「パスパ文字による言語統一」の理想と現実との乖離という点にある。1269年、チベット僧パスパ(ʼPhags-pa, 1235-1280)が創制したパスパ文字は、モンゴル語・漢語・チベット語・ウイグル語など帝国内すべての言語を統一的に表記する「普遍文字(universal script)」として構想された。勅令・貨幣・印章にパスパ文字が使用され、『蒙古字韻』(1308年)という大規模な漢語音韻書が編纂された。しかし漢字文化の根強い抵抗と実用性の問題により、パスパ文字は民間に普及せず、元朝滅亡とともに消滅した。
一方で実務レベルでは、漢字によるモンゴル語音写(『至元訳語』1282年頃、『華夷訳語』1382年)、翻訳局・通事の整備、科挙制度の一部維持など、現実的な多言語行政が機能した。モンゴル帝国のユーラシア規模の言語ネットワーク――イランのペルシャ語文書、中央アジアのウイグル語文書、チベットのチベット語仏教文献――と中国の漢語文書を接続する言語インフラが構築され、前近代における最も洗練された多言語統治体制の一つとなった。
現代において、元朝の言語政策は前近代帝国における言語と権力の関係を示す重要な事例である。「国語」の象徴的機能と実用的限界、普遍文字の理想と文化的抵抗、多言語行政の制度設計など、現代の多言語国家にも通じる課題が凝縮されている。
基本構造:
- 国語: モンゴル語(政治的象徴・宮廷語)
- 国字: パスパ文字(1269年創制、勅令・貨幣・印章に使用)
- 実務言語: 漢語(行政文書の大半)、ウイグル語(西域統治)、ペルシャ語(イラン方面)
- 補助表記: 漢字によるモンゴル語音写(民間の語彙集)
- 制度基盤: 翰林兼国史院(モンゴル・漢語文書作成)、翻訳局、通事(通訳)、科挙(漢人官僚登用)
元朝言語政策の歴史的展開
第一期:征服期とウイグル文字モンゴル語(1206-1269)
チンギス・カンとウイグル文字の採用
1204年、チンギス・カン(成吉思汗、1162頃-1227)はウイグル人学者タタトンガ(塔塔統阿)を捕虜として獲得し、ウイグル文字を改変してモンゴル文字を創制させた。これ以前、モンゴル人は文字を持たず、口承で法令・歴史を伝承していた。
ウイグル式モンゴル文字の特徴:
- 縦書き(上から下へ、左から右への改行)
- 表音文字(音節ではなく音素を表記)
- 語頭・語中・語末で字形が変化(連綿体)
この文字の採用により、モンゴル帝国は史上初の「モンゴル語文書帝国」となった。勅令(jarlig)、駅伝制の文書(jam)、軍令、外交文書がすべてモンゴル語で作成された。
中国征服と漢語行政の継承
1234年、モンゴルは金朝(女真族王朝)を滅ぼし、華北を支配した。1279年にはフビライ(忽必烈、1215-1294)が南宋を滅ぼし、中国全土を統一した。
しかしモンゴル人官僚は絶対数が不足し、漢語能力も限定的であったため、漢人官僚を大量に登用する必要があった。フビライは、金朝・宋朝の官僚機構をそのまま継承し、漢語による行政文書作成を認めた。
二言語体制の成立:
- モンゴル語:皇帝勅令、軍事命令、モンゴル王侯との通信
- 漢語:地方行政文書、税務記録、司法文書、対漢人外交
このため、元朝の行政文書の大半は実際には漢語で作成された。
第二期:パスパ文字と「国字」政策(1269-1294)
パスパ文字の創制
1260年、フビライは大ハーン位に即位し、国号を「大元」と定めた。1264年、チベット仏教サキャ派の高僧パスパ(‘Phags-pa bla-ma, 1235-1280)を「国師」に任命し、帝国全体で使用可能な新文字の創制を命じた。
創制の動機:
- ウイグル式モンゴル文字の曖昧さ(o/uの区別困難、外来語表記の不備)
- 帝国内の多言語(モンゴル語・漢語・チベット語・ウイグル語・ペルシャ語)を統一的に表記する「普遍文字」の理想
- モンゴル帝国の普遍的支配を象徴する文化事業
1269年、パスパは新文字を完成させ、フビライはこれを「国字」と定め、全帝国での使用を命じた。
パスパ文字の構造:
- チベット文字を基盤とした表音文字
- 41の基本字母(子音30、母音11)
- 縦書き(左から右への改行)
- モンゴル語・漢語・チベット語・サンスクリット語を正確に表記可能
「国字」政策の展開
公文書への使用:
- 1269年以降、皇帝勅令はパスパ文字で発布(漢語訳を併記)
- 至元宝鈔(紙幣)にパスパ文字の額面表示
- 印章・璽印にパスパ文字を刻印
『蒙古字韻』の編纂(1308年): 元朝政府は、パスパ文字による漢語表記の標準化のため、朱宗文・周伯琦らに『蒙古字韻』を編纂させた。これは、3,600余の漢字をパスパ文字で音写し、16摂41韻に分類した大規模な韻書である。
この辞書の存在は、元朝政府が「国字」政策を真剣に推進したことを示す。しかし科挙試験での使用は義務化されず、民間での普及は限定的であった。
パスパ文字の失敗
普及の限界:
- 習得が困難(41字母+複雑な結合規則)
- 漢字文化の根強い抵抗(漢人知識人はパスパ文字を「夷狄の文字」と蔑視)
- ウイグル式モンゴル文字の並行使用(モンゴル人自身が旧文字を使用し続けた)
- 実用性の欠如(日常の商取引・民事文書は依然として漢字)
1368年の元朝滅亡後、パスパ文字は完全に使用されなくなり、現在は碑文・貨幣・印章にのみ遺存する「死んだ文字」となった。
第三期:多言語行政の定着と漢語の優位(1294-1368)
フビライ死後の言語政策
フビライの後継者たち(成宗・武宗・仁宗・英宗)は、「国語」としてのモンゴル語と「国字」としてのパスパ文字の地位を名目上維持したが、実務はますます漢語に依存した。
理由:
- モンゴル貴族の漢化(中国文化への同化)
- 漢人官僚の増加(科挙の部分的再開、1315年)
- 経済活動の拡大(江南の商業発達により漢語が不可欠)
翻訳局と通事の整備
元朝は、多言語行政を支えるため、翻訳機関と通訳制度を整備した。
翰林兼国史院:
- モンゴル語・漢語の公文書作成機関
- モンゴル語文書の漢語翻訳、漢語文書のモンゴル語翻訳
- 歴史編纂(『元史』の前身)
通事(Tolmači / 通事):
- モンゴル語-漢語通訳
- 皇帝と漢人官僚の会談に同席
- 外交使節の通訳
会同館:
- 対外使節の接待・通訳機関
- ペルシャ語・ウイグル語・朝鮮語・日本語の通訳を配置
科挙制度の一部復活(1315年)
元朝は当初、科挙(官僚登用試験)を廃止し、モンゴル人・色目人(西域出身者)を優先登用した。しかし漢人知識人の不満と、行政能力の不足により、1315年に科挙を部分的に復活させた。
科挙の民族別枠:
- 蒙古・色目人枠:試験科目簡略化、合格枠25%
- 漢人・南人枠:従来の試験内容、合格枠75%
ただし、モンゴル語能力は科挙の必須科目ではなく、漢語のみで受験可能であった。これは、モンゴル語が「国語」としての象徴的地位を持つ一方、実務では必須でないことを示す。
言語政策の制度的基盤
翰林兼国史院:多言語文書作成の中枢
翰林兼国史院(ハンリン・アム・コクスイン)は、元朝の最高学術機関であり、皇帝直属の文書作成・翻訳・歴史編纂機関であった。
主要職務:
- 皇帝勅令のモンゴル語・漢語二言語作成
- モンゴル語文書の漢語翻訳
- 漢語文書のモンゴル語翻訳
- 歴史編纂・記録保存
翰林兼国史院には、モンゴル語・漢語双方に精通した「蒙古翰林(モンゴル語専門翰林)」と「漢人翰林(漢語専門翰林)」が並存し、協力して文書を作成した。
通事:口頭通訳の専門職
通事(トンシー、モンゴル語:Tolmači)は、モンゴル語-漢語の口頭通訳を専門とする官職であった。
役割:
- 皇帝と漢人官僚の会談通訳
- モンゴル王侯と漢人地方官の交渉通訳
- 司法裁判の通訳(モンゴル人被告と漢人原告の間)
通事は、通常モンゴル系または色目人(中央アジア出身)が務め、幼少期から両言語環境で育った者が選抜された。
会同館:対外通訳機関
会同館(ホイトンガン)は、外国使節の接待と通訳を担当する機関であった。
配置言語:
- ペルシャ語通訳(イル・ハン国、デリー・スルタン国)
- ウイグル語通訳(チャガタイ・ハン国、東トルキスタン)
- チベット語通訳(チベット仏教寺院)
- 朝鮮語通訳(高麗)
- 日本語通訳(日本)
元朝は、モンゴル帝国の一部として、ユーラシア規模の外交ネットワークを維持しており、多言語通訳能力が外交の基盤であった。
多言語共存の実態
公文書の言語使用
元朝の公文書は、用途により言語が使い分けられた。
モンゴル語公文書:
- 皇帝勅令(ジャルリグ / jarlig)
- 軍事命令
- モンゴル王侯への賜与文書
- 駅伝制(ジャム / jam)の通行証
漢語公文書:
- 地方行政文書(州県レベル)
- 税務記録
- 司法判決文
- 対朝鮮・日本外交文書
ペルシャ語公文書:
- イル・ハン国(イラン)との外交文書
- 西域(中央アジア)の行政文書
チベット語公文書:
- チベット仏教寺院への勅令
- サキャ派との宗教外交
漢字によるモンゴル語音写
パスパ文字が普及しなかったため、民間では漢字によるモンゴル語音写が広く使用された。
主要資料:
- 『至元訳語』(1282年頃) – 『事林広記』所収、約50~100語
- 『華夷訳語』(1382年、明初) – 約3,800語、17門分類
これらは、モンゴル語学習用の実用語彙集であり、商人・通訳見習いが使用した。漢字音写は不正確であるが、パスパ文字よりも習得が容易であり、実用的であった。
モンゴル人の漢化と言語使用
元朝後期(14世紀前半)、モンゴル貴族の漢化が進行した。
漢化の証拠:
- モンゴル貴族の漢詩作成
- 漢語の姓名使用(例:脱脱 / トクト、漢名「脱脱」)
- 漢語演劇の観劇
- 漢語小説の愛読
しかし、モンゴル人アイデンティティの核心は依然としてモンゴル語であり、モンゴル語を忘れることは「モンゴル人でなくなること」を意味した。このため、モンゴル貴族は漢語を学びつつ、モンゴル語を保持した。
元朝言語政策の遺産と限界
パスパ文字の失敗が示すもの
パスパ文字の失敗は、以下の教訓を示す。
文化的抵抗の強さ: 漢字は単なる表記手段ではなく、中国文明のアイデンティティの核心であった。漢人知識人は、パスパ文字を受け入れることを文化的降伏と見なし、抵抗した。
実用性の重要性: パスパ文字は言語学的には優れていたが、習得コストが高く、既存の文字体系(漢字・ウイグル式モンゴル文字)に対する優位性を証明できなかった。
政治的シンボルと実用性の矛盾: 「国字」は政治的象徴として機能したが、実務では使用されないという矛盾が生じた。これは、現代の「公用語」政策にも通じる問題である。
多言語行政の成功
一方で、元朝の多言語行政は一定の成功を収めた。
成功要因:
- 翻訳局・通事の整備
- 民族別官僚枠(モンゴル・色目・漢・南)による実務分担
- 漢語の事実上の優位を認める現実主義
元朝は、「モンゴル語を国語とする」という理念と、「漢語を実務言語とする」という現実を併存させることで、100年間の統治を維持した。
明朝による継承と断絶
1368年、朱元璋が明朝を建国し、元朝を北方に駆逐した。明朝は漢人王朝であり、モンゴル語を排除したが、一方で元朝の多言語辞書編纂の伝統を継承した。
継承:
- 『華夷訳語』(1382年) – モンゴル語・漢語対訳、約3,800語
- 四夷館(外国語教育機関)の設立
- 対モンゴル外交のためのモンゴル語通訳養成
断絶:
- パスパ文字の完全廃止
- モンゴル語の「国語」地位の否定
- 漢語単一言語体制への回帰
現代的意義
前近代多言語帝国の典型
元朝の言語政策は、前近代における多言語帝国統治の典型例である。
比較対象:
- オスマン帝国(トルコ語・アラビア語・ペルシャ語・ギリシャ語)
- ムガル帝国(ペルシャ語・ウルドゥー語・ヒンディー語・サンスクリット)
- ハプスブルク帝国(ドイツ語・ハンガリー語・チェコ語・イタリア語)
これらの帝国は、支配民族の言語を「国語」と定めつつ、被支配民族の言語を実務に使用するという共通構造を持つ。
言語と権力の関係
元朝の事例は、言語政策が単なる実務的便宜ではなく、政治的支配の正統性を示すシンボルであることを明示する。
言語政策の政治的機能:
- 支配民族のアイデンティティ維持
- 被支配民族の統合
- 帝国の普遍的支配の象徴
現代中国への示唆
現代中国は、漢語(普通話)を国家共通語と定めつつ、55の少数民族言語を「民族語言」として認めている。この構造は、元朝の「国語と実務言語の併存」と類似する。
共通課題:
- 国家統合と民族多様性の両立
- 「国語」の象徴的機能と実用的限界
- 少数民族言語の保護と経済発展の矛盾
元朝の経験は、多言語国家における言語政策の複雑さと、理想と現実の乖離を示す歴史的教訓である。
関連項目
- パスパ文字 – 元朝の「国字」(1269年創制)
- 『蒙古字韻』 – パスパ文字による漢語韻書(1308年)
- 『至元訳語』 – 元朝初のモンゴル語-漢語対訳(1282年頃)
- 『華夷訳語』 – 明初のモンゴル語-漢語対訳(1382年)
- 中期モンゴル語 – 13-16世紀のモンゴル語
- 清朝の言語政策 – 後継王朝の多言語統治
- モンゴル帝国の言語政策 – ユーラシア規模の多言語行政
主要研究文献
日本語文献
- 村上正二「八思巴文字の研究」『東洋学報』1951年
- 栗林均「パスパ文字モンゴル語文献概説」『内陸アジア言語の研究』1990年
- 愛宕松男『元朝史研究』創元社、1972年
- 杉山正明『モンゴル帝国の興亡』講談社、1996年
英語文献
- Allsen, Thomas T. Culture and Conquest in Mongol Eurasia. Cambridge University Press, 2001.
- Franke, Herbert & Denis Twitchett (eds.). The Cambridge History of China, Vol. 6: Alien Regimes and Border States, 907-1368. Cambridge University Press, 1994.
- Rossabi, Morris (ed.). China Among Equals: The Middle Kingdom and its Neighbors, 10th-14th Centuries. University of California Press, 1983.
- Morgan, David. The Mongols. Blackwell, 2007.
中国語文献
- 陳垣『元西域人華化考』中華書局、2000年(原著1923年)
- 周清澍『元史三論』内蒙古人民出版社、1988年
- 札奇斯欽『蒙古史論文集』内蒙古人民出版社、1980年
- 劉迎勝『元代文化研究』中華書局、1994年
補注
「国語」と「国字」の意味
元朝の「国語(guyu)」「国字(guozi)」は、現代の「national language」「national script」とは異なる概念である。「国」は民族国家(nation-state)ではなく、「我々の」という民族的アイデンティティを示す。モンゴル語では「国語」を “törü-yin kelen”(国家の言語)ではなく、単に「我が語」と表現した。
パスパ文字のUnicode収録
2006年、パスパ文字がUnicode 5.0に収録された(U+A840-A877)。これにより、デジタル環境でのパスパ文字表示・入力が可能となった。現在、BabelStone Phags-paフォントが最も完全な実装を提供している。
元朝の滅亡と言語政策の終焉
1368年、朱元璋が南京で明朝を建国し、同年北京を攻略して元朝を滅ぼした。モンゴル皇帝トゴン・テムル(順帝)はモンゴル高原に逃れ、北元政権を樹立した(1368-1388/1402)。パスパ文字は明朝では使用されず、北元でも次第にウイグル式モンゴル文字に回帰した。1450年頃には、パスパ文字を読める人間はほとんど存在しなくなった。
最終更新: 2025年12月01日
執筆: Itako (itako999.com)
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