チンギス・ハーンに関する文献(1)
「チンギス・ハーンとその時代に関する史料または文学作品」 (Ш. Нацагдорж, “Чингис хаан ба түүний үеийн талаарх сурвалж бичиг. зохиол”, Чингис хааны цадиг, Улаанбаатар.1991. より翻訳) モンゴルの歴史資料として第一に挙げられるのは、チンギス・ハーンとその時代の歴史を描写した文献である。これらは主に、13~15世紀に書かれたものと、15~17世紀に書かれたものの二つに分類できる。 13世紀に書かれた代表的な歴史資料といえば、よく知られた『元朝秘史』である。この書物の成立年代については学者によって諸説あるが、ここでは1240年に成立したとする説を採用して話を進めることにする。 多くの学者たちは『元朝秘史』を物語性の強い、むしろ口承文芸に属するものであり、歴史的な裏づけは低く、歴史的資料としての価値は低いと見なしているようだ。しかしながら、『元朝秘史』は口承文芸や詩に彩られた側面だけでなく、13世紀のモンゴルの歴史、例えばチンギス・ハーンのとった行動などについて詳しく描写しているという点も見逃してはならず、十分に価値ある歴史的資料だということは否定できない。 『元朝秘史』は当時の文献として唯一残されたものではなく、それと並行してその他の歴史資料も存在していたことが明らかになっている。元の時代の文献を見ると、黄金の家系、つまり皇帝の血筋を引く者にしか閲覧することを許されなかったという『イフ・トプチョー』についての記述がある。 『元朝秘史』は現存するものはすべてモンゴル語の発音に漢字を当てて書き表したものだけで、原本となるモンゴル語で書かれたものは失われてしまっている。1926年に古文書館の館長を務めていたジャミヤン・グンは、ロプサンダンザンの作による『アルタン・トプチ』をハルハのツェツェン・ハン盟のバヤントゥメンの近くで、ユンシィエブ太祖(?)の子孫である人から譲り受けたが、この文献には『元朝秘史』のかなり多くの部分が重複して含まれていただけでなく、『元朝秘史』には記述されていなかった数多くの興味深い事実が記述されている。 ジャミヤンが入手した『羅・アルタン・トプチ』の存在は、『元朝秘史』がもともとモンゴル文字で書かれていたということを裏付ける証拠となりうる。 なお、アルタントプチと呼ばれるものには『羅・アルタン・トプチ』だけでなく、『大アルタントプチ』や作者不明の『アルタン・トプチ』など、いくつか存在する。 J. ツェベーによれば、十六世紀から十七世紀に書かれたサガンセチェンによる『蒙古源流』などはラマ僧たちが実権を握っていた頃に書かれたもので、モンゴルの王族の系統をインドやチベットの系統に結びつけて記述しており、チンギス・ハーンを始めとするモンゴルの王侯たちの行いはすべてチベット仏教のラマ僧の説法に従ってなされていたかのような記述が随所に見受けられる。 その他の文献としては、バーリン出身のラーシ・ポンツァグによる『水晶念珠』、チャハル出身のゴンポジャブによる『恒河之流』、ジャンバルドルジによる『水晶鑑』などが挙げられる。 これらの作品は、当時の知識人たちによって中国語やチベット語の文献を参考にして書かれたという特徴を持ち、作者自身のものの見方が作品に反映されているという点が興味深い。例えば、ある作品では一貫してチンギス・ハーンを主体としているのに対して、別のある作品では弟のハサルを弁護したり賞賛したりするニュアンスが強い。ある作品では、中国の文献にモンゴルの歴史が歪曲して描かれていることを批判している。特に、ラーシ・ポンツァグの『水晶念珠』やジャンバルドルジの『水晶鑑』には、他の歴史書には現れないような興味深い内容が含まれる。 とはいえ、それらの記述には他の歴史書と矛盾するものも少なくない。例えばジャンバルドルジの作品では、テムジンが3歳のときに父親が亡くなり、母親もそのすぐ後で亡くなったと描写されており、その他の歴史書や『元朝秘史』とは内容に食い違いがある。だから、こられの歴史家たちの記述に目を通す際には、十分批判的な態度で臨む必要がある。 上記の文献以外には、『シャル・トージ』や『アスラクチ史』、ロミーによる『モンゴルのボルジギン氏族の歴史』、ガルダン・トスラクチによる『エルデニーン・エルヘ』など、様々な文献が存在する。 また、モンゴル語の文献だけでなく、外国語によって記述された文献も非常に数多く、まず第一に中国の歴史書が挙げられる。数多くの文献のなかでも、特に重要なのは『元史』という書物である。(訳注:次回に続く)