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Month: August 2007

国内モンゴル語研究最前線(3)

【白樺樹皮文書類の研究】 白樺樹皮文書類とは、モンゴル国のオブス県タワクチン・オラーンで1999年6月と、2000年9月に出土したもので、白樺の樹皮にモンゴル文字が書き綴られた文献の束および紙文書を指す。早稲田大学の吉田順一教授を所長とするモンゴル研究所は、発掘者のオチル教授と協定を締結し、共同研究を行っている。 日本のモンゴル研究所側では、2002年3月までに文献の保存処理を行った。2003年度からはモンゴル国側に写真カットを送り、それぞれで研究する体制を築き、本格的に研究を開始した。現在では、全文書のローマ字転写が完了しており、一件の冊子体文書については早稲田大学モンゴル研究所『紀要』創刊号に掲載された。 これらの白樺樹皮文書は、17~18世紀頃のもので、宗教関係の内容のものが多く、当時モンゴル国西部にも白樺樹皮を使った文字文化が存在したことなどを明らかにした点で意義深い。 なお、現在ではモンゴル研究所の研究プロジェクトから外されているが、日本側研究代表者は井上治教授が務めており、白樺樹皮文書は2005年にモンゴル国側に返還されている。

国内モンゴル語研究最前線(2)

【オロンスム文書】 2006年12月2日、横浜ユーラシア文化館の主催で「オロンスム文書」のシンポジウムが開催された。http://www.eurasia.city.yokohama.jp/event/061202/program.html オロンスムとは、中国内モンゴル自治区にある遺蹟で、元朝時代に有力だったオングト族の本拠地だった。16世紀にはアルタン・ハーン(1507~1581)により、チベット仏教が導入され、多くの仏教寺院が建てられている。オロンスム出土モンゴル語文書は、そうした16~17世紀の資料である。 横浜ユーラシア文化館は、1998年よりオロンスム出土資料の研究を行っており、2004年より館外の研究者の協力を得て、オロンスム出土モンゴル語文書の研究を開始した。まず、モンゴル語テキストのローマ字から着手し、赤外線投射を行って保存状態の悪い文書の解読を試みた。併せて、東京大学総合研究博物館所蔵オロンスム出土文書の調査も行っている。 今後はオロンスム文書のホームページでの公開が予定されており、2007年度にはデータベースとして公開されるという。 オロンスム出土モンゴル語文書の研究意義について、モンゴル語の出土文献・文書の中ではもっとも東(モンゴル高原中南部)の遺蹟から発見されたものであり、主に17世紀のモンゴル人と寺院の関わり、モンゴル人の生活に由来する精神世界を窺い知ることができると、研究協力者の一人、井上治氏はシンポジウムの席で語っている。

チンギス・ハーンに関する文献(7)

国外においてここ数年、チンギス・ハーンに関するいくつかの良書が刊行されたことについても、特に言及したい。これらには、Пауль Рачиневскийの『チンギス・ハーンおよびその生涯と業績』という1983年に出版された書物がある。同書では、歴史的資料を学術的に再度検討し、一部の史実について、新たな解釈を試みている。しかも、チンギス・ハーンの伝記、彼の歴史上で果たした役割と地位について正しい評価を下した優れた書であり、西欧において刊行されたチンギス・ハーンに関する作品の中では特に優れたものである。 チンギス・ハーンについてごく最近出された書籍の中では、内モンゴルの学者サイシャールが1987年に発表した『チンギス・ハーンの要綱』という2冊本がある。サイシャールによるこの書物は、後にも先にも、チンギス・ハーンに関して出された本の中で最も規模が大きなものである。サイシャールは、チンギス・ハーンの伝記、歴史に関するすべての文献資料、論文をくまなく調べ尽くし、チンギス・ハーンの生涯についての詳細な研究を行い、チンギス・ハーンがモンゴル史および世界史において果たした役割、そこに占める位置づけを精確に解釈することに務めた。また、サイシャールの更に優れている点は、歴史的な年代、地名などを調査して明らかにし、誤りを改めることに関して、極めて精緻な仕事を行ったことにある。 『チンギス・ハーンの要綱』は、チンギス・ハーン研究において多大な成功をおさめた、賞賛に値する作品として見做すべきことを特記しなければならない。 モンゴルの封建主義の時代の歴史について、国外で出された書物について言及するならば、日本の学者たちの研究についても触れておくべきだろう。日本の学者たちは、モンゴルの中世の歴史研究において、いうまでもなく第一の地位を占めているが、中でも元朝秘史を詳細に研究した小沢重男や村上、モンゴルの封建主義の歴史を研究した岩村、ヤナイらが挙げられる。その他にもチンギス・ハーンの伝記を記した書物は数多く存在するようだが、筆者(ナツァグドルジ)はタカイシ・カズフジの『チンギス・ハーン』という本が出版されたのを、内モンゴルの学者が翻訳出版したことを通して知ったのみである。

チンギス・ハーンに関する文献(6)

1930年代に西ヨーロッパでは、何度も再版されたエル・ハラ・ダワーの『チンギス・ハーン将軍とその遺産』、レンベの著による『全人類の主チンギス・ハーン』などが出版されたが、(これらは)チンギス・ハーンをあまりにも賞賛して持ち上げ、犯した過ちを正当化したもので、学術的な価値はそれほど高くなく、史実が半分含まれた小説というべきである。 一方、イギリスの学者ラリフ・フオックスによって書かれた『チンギス・ハーン』という書物は、上記の作品よりも学術的な見地からして極めて優れた作品である。1950年にはD. マーチンの『チンギス・ハーンの繁栄と北宋の征服』という作品が出版された。この作品の優れている点は、O.ラティモアが指摘した通り、西洋の学者たちはモンゴル人の遠征を単にチンギス・ハーンとその子孫たちが行った西方への遠征についてのみ言及し、東方、例えば宋に対して行った遠征については十分言及していない。しかしながらマーチンは宋を征服した出来事を特に詳細に研究している。さらに最も重要な点は、大量の漢語の文献を利用しているということだ。 チンギス・ハーンの伝記として個別に書かれたわけではないが、モンゴルの行った征服、モンゴル帝国、チンギス・ハーンの生涯について述べた数多くの作品が西洋で書かれている。それらのすべてをここで紹介するわけにはいかないが、特にその中で挙げておきたいのは、モンゴルの国外アカデミーの会員、国際モンゴル学会の初代会長を務めたモンゴル学者O.ラティモアによる多くの学術論文である。例えば、『中国の中央アジアの境界』(1940)という作品を挙げるべきであろう。O.ラティモアの作品では、中央アジアおよびモンゴルの遊牧社会の発展、その特徴について非常に興味深く、深い考察がなされている。

チンギス・ハーンに関する文献(5)

上記の二冊の書物の他には、マガキ・ワルダンらによる古代アルメニア語で書かれた書があり、早くからモンゴルの一部の学者がそれらの文献をモンゴル語に翻訳して雑誌に発表していた。これらの文献からは、モンゴル人が彼らに対して行った征服について、いくつかの興味深い情報が得られる。西ヨーロッパの言語で書かれた重要な文献としては、イタリアのマルコ・ポーロの旅行記が挙げられる。以前、モンゴルの国家アカデミー会員であるリンチンがマルコ・ポーロの作品を極めて美しいモンゴル語に翻訳したものを何章か発表したが、残念なことに最後まで翻訳されるには至らなかった。内モンゴルでは、マルコ・ポーロの作品が二度に渡って翻訳出版されている。 チンギス・ハーンおよびその時代に関しては、国外において数多く学術的な文献が発表されている。特に優れたものとしては、Д.Оссоによる『モンゴル人の歴史』(1824)、ソ連(現在のロシア)の歴史家В.В. Бартольдによる『モンゴル人による征服時代のトルキスタン』、また特に同著者の『チンギス・ハーンの帝国成立について』という輝かしい研究論文がある。さらに、ソ連の有名なモンゴル学者ウラジミルツォフ(Г.Я. Владимирцов)による『チンギス・ハーンの伝記』、『モンゴル人の社会構造』という書物もある。これらのうち、ウラジミルツォフの『チンギス・ハーンの伝記』は、その前後に出されたチンギス・ハーンに関しするどの作品よりも、学術的な価値が高いものである。ウラジミルツォフの『モンゴル人の社会構造』も、モンゴル史の研究に大きな影響を与え、チンギス・ハーンの時代を研究する上で中心となる貴重な学術的な資料とされている。 これらの著者は、チンギス・ハーンとそれに纏わる出来事を学術的な立場から評価することに努めている。彼らの功績は、チンギス・ハーンとその征服の歴史において起こった出来事を特異な征圧の歴史として捉えていた、それまでの古い考え方を打破し、チンギス・ハーンとその時代の意義を万人に理解可能なものとして説明したことにある。

チンギス・ハーンに関する文献(4)

『集史』を編纂したのはラシードゥッデーンとされるが、実際に執筆を行ったのはボルド・チンサンという人物だった。ボルド・チンサンはモンゴルの歴史書について詳しかった上に、『アルタン・デプテル』以外にも、名もない数多くのモンゴル語の作品、記録、論述、メモ書きなどを豊富に所有していたようだ。さらにボルド・チンサンのもとでは、モンゴルの歴史書、法制に通じた老翁たちが書記を務めていたであろうことは言うまでもない。ラシードゥッデーンの作品には、元朝秘史の中の出来事をもっと詳しく書いた様々な史実や伝説が含まれている。それにもかかわらず、学者たちによる詳細な研究が十分になされているとは言いがたい。 ラシードゥッデーンの『集史』の他には、ジュヴァイニーの著による『世界征服者史』という書物がある。ジュヴァイニーはこの書物を1260年に著し、チンギス・ハーンからモンケ・ハーンの時代までの歴史を書き記している。ジュヴァイニーは、イランの地のモンゴル国のウレフ、アバガらのハーンの時代に、政治的地位の高い大臣を務めていた。ラシードゥッデーンは『集史』において、ジュヴァイニーのこの書物を資料として利用している。記録の豊富さにおいてはラシードゥッデーンほどではないが、これもまた重要な文献の一つとして挙げておくべき作品である。 西洋で著されたモンゴルの歴史書には、この他には例えば、プラノ・カルピニの『モンゴル人の歴史』、ウィリアム・ルブルクの『東方旅行記(『蒙古帝国旅行記』)』などの二冊の書がある。1248年にモンゴルに赴いたローマのパプ法王(インケンティウス四世?)の使節プラノ・カルピニ、及び1248年にフランスのリュードスヴィック王の使者としてモンゴルに赴いたウィリアム・ルブリクらの二人の修道士は、互いに近い時代にそれぞれモンゴルに渡って、モンゴルの当時の首都カラ・コリムに滞在した。この間に見聞収集した記録は、当時のモンゴルの状況を非常に詳細に記述しているため、我々歴史家たちに信頼できる情報をもたらしてくれる。

チンギス・ハーンに関する文献(3)

漢語で書かれた重要な資料にはこの他に、『蒙韃備録』、『黒韃事略』という二冊の書物があり、十三世紀のモンゴルの歴史、政治、生活、文学、軍事、道徳習慣に関して信頼に値する情報が含まれている。この二冊の書はモンゴル国で翻訳されたが、出版には至らなかった。しかしながら、内モンゴルの学者たちは『モンゴル文献集(Монгол тулгар бичгийн цуврал)』の中に上記の二冊の書を『皇元聖武親征録』とまとめて一冊の本とし、1985年に出版公開している。 モンゴルの歴史、特にチンギス・ハーンの歴史や伝記に関する漢語で書かれた資料は非常に多いが、これらのすべてを挙げるのはひとまず止めておき、他の外国語で書かれた文献について述べることとする。 まず挙げるべきなのは、ラシードゥッディーン(1247~1318)によって編纂された『集史』という巨著である。この書物は、ユダヤ民族で医師であった(ラシードゥッディーンによって)、現在のイランの地に成ったモンゴル国のガザンやウルジートらのハーンたちの治世の時代に、ハーンらの命を受けて書かれたものである。ガザン・ハーン(1271~1304)は、(中略)イランに成ったイル・ハン国のハーンであり、非常に学識と権力を備えていた人物として歴史書に記されている。 ラシードゥッディーンは、イランのモンゴルのハーンの宮殿にある書庫に収められていた『黄金の秘冊(アルタン・デプテル)』などの、現在では残されていない特に重要な資料を利用しているという点で、(『集史』は)特に価値が高い。

チンギス・ハーンに関する文献(2)

「チンギス・ハーンとその時代に関する史料または文学作品」 (Ш. Нацагдорж, “Чингис хаан ба түүний үеийн талаарх сурвалж бичиг. зохиол”, Чингис хааны цадиг, Улаанбаатар.1991. より翻訳) この何巻にも及んで書き綴られた元史は、元朝の崩壊後に成立した漢民族の王朝である明朝の歴史家たちによって編纂されたものである。この巨著には、現在では残されていない数多くの資料が利用されているだけでなく、間近に起こった出来事を検証して書かれているため、いずれも極めて多くの情報が含まれている。しかしながら、この書物は過分に明代の歴史学者が史実を歪曲して記述した面があり、誤った記述も少なくないという点を指摘しておかなければならない。 モンゴル古典籍院のメンバーであるダンダー氏は、同院のプロジェクトとして、元史を中国語からモンゴル語に翻訳する作業を行った。彼のこの業績は、モンゴル史研究における忘れがたい功績であり、後世のモンゴル人歴史学者のために残された記念碑的事業といえよう。 なお、元史の他には『皇元聖武親征録』というもう一つ重要な書物がある。この書物もまた、ダンダー氏によってモンゴル語訳がなされている。最近では、内モンゴルでも『皇元聖武親征録』が新たに翻訳して出版された。これは元々はモンゴル語で書かれた作者不明の書であり、元朝秘史に書かれている内容とほとんど一致している上に、全く記述されていない内容も含まれているという点が興味深い。 中国にはこの他、重要な文献として漢人である長春真人(邱処機)による「長春真人西遊記」という非常に貴重で珍しい書物も存在する。漢人の学者、長春真人がチンギス・ハーンの命により漢地から中央アジアに向けて長い旅を続け、チンギス・ハーンに謁見したことなどを克明に記録した実話である。

シャパレとホーショール

チベットにはシャパレという食べ物があるそうだが、まだ食したことはない。ネットで調べたところ、パイ包みの中に餃子の具のようなものが入っているもの、カレーパンサイズの揚げ餃子などと説明があった。ラサでは簡便化したものなのか、揚げパンに肉を挟んだだけのものが売られているという。 先日購入した”Imperial mongolian cooking”にもシャパレの作り方が載っていたが、これはオーブンで焼くタイプだ。小麦粉の生地で皮を2枚作って間にひき肉を挟んで焼く。同書の著者のお祖父さんは、これを”モンゴル・ピロシキ”と呼んでいたそうだ。 もちろんこれはチベット料理であって、モンゴル料理ではないのだが、モンゴルにもホーショールというそっくりの料理がある。これは一枚の皮にひき肉をつめて、平たくして油で揚げて作る。 はたしてシャパレとホーショールのいずれかがルーツなのか、あるいは遊牧生活の文化の中で似たような料理が生まれたのか、定かではない。

『同文韻統』

『同文韻統』とは、章嘉呼図克図によって乾隆十四年(1749年)に編纂された、梵字、チベット文字、満州文字、蒙古文字、漢字の対応表を附した書である。『欽定同文韻統』または『御製同文韻統』とも題され、6巻本の版と8巻本の版がある。 著者の章嘉呼図克図(章嘉活仏)は、中国内モンゴル地区で信仰されるチベット仏教最大の活仏であり、清代に内モンゴルのチベット仏教を取り仕切っていた。章嘉一世は元の名を張家といい、後に章嘉と改名した。呼図克図(ホトクト)はモンゴル語で聖者を意味する。なお、母寺は青海佑寧寺(かつての郭隆寺)である。 筆者の手元にあるのは、台湾で民国67年(1978年)に刊行された新文豊出版公司による『同文韻統六巻』の影印本で、単行本として刊行されている。 ・第一巻・・・「天竺字母譜」として梵字(悉曇文字?)、チベット文字、満州文字、蒙古文字(アリガリ文字を含む)、漢字の対応表・第二巻・・・「天竺音韻翻切配合十二譜」・第三巻・・・主にチベット文字の重子音についての表からなる。チベット文字と満州文字、蒙古文字、漢字の対応表・第四巻・・・「天竺西番陰陽字譜」として、そのうち「天竺音韻十六字」、「天竺翻切三十四字」、「西番字母三十字」、チベット文字、満州文字、蒙古文字、漢字の対応表で、表中に梵字は含まれない。・第五巻・・・「大蔵経字母同異譜」・第六巻・・・表音字として用いられた漢字と、個々の発音についての詳細。