モンゴル人と日本人の共通点として、食べ物を無駄にしないことを美徳とする点が挙げられる。およそ肉を食べるということはその動物の命を奪うことを意味するが、折り角犠牲になったその命を無駄にはせず、ほとんどの部位は食物として有効に利用される。食物として利用しきれなかった部位も、さまざまな日用品として加工される。
モンゴル語には「明日の脂身は今日の肺臓に及ばない」ということわざがある。明日になってご馳走である脂身をもらうよりは、今日中に肺臓をもらったほうがましという意味である。時機を得ていなければどんな価値のあるものでも意味がないという喩えだが、このことわざから、モンゴル人にとって最もご馳走なのは脂身であり、逆にそうでないのは肺臓だという事実がうかがえる。肺臓というは、いわば体内に入ってくる空気をろ過する働きをする器官であり、あまりおいしくないのは当然だろう。そうした部位ですらも、一応食べ物として認識されているということだ。
もっともらしいことを書いたが、実は私は内臓料理についてはあまり詳しくない。調査などのため、しばらくモンゴルの遊牧地域に滞在していたことはあるが、一介の客人にすぎなかった私は、ほとんど内臓を食事に出されることはなかった。単に滞在期間が短かったのか、現地の人たちも実際にはあまり食べないのか、お客にはあまり内臓を食べさせる習慣はないのか、その辺の事情は不明である。ともかく、数少ない記憶を呼び起こして、知る限りのことを記述したい。
腸を使った料理はかなり記憶にある。私の大好物は血のソーセージである。と殺するときに出る血液も捨てずにとっておいて、そば粉や小麦粉、ねぎなどを混ぜ、よく洗った腸の中に詰めて茹で上げる。現地に行ってもなかなか遊牧地域まで行かないと口にすることはできないが、機会があったら食してみられることをお勧めする。大草原の息吹が感じられる一品である。
内モンゴルの西ウジュムチンにいた頃、胃の料理をご馳走になったことがある。旗(行政単位名)の中心にあるお宅でだが、たしか中華料理のような炒め物だったと思う。
内臓というわけではないが、睾丸を食べたこともある。同じく西ウジュムチンの遊牧地域のお宅に滞在していたときのこと、春先に子羊を種羊とそうでない羊に選り分けて、去勢する作業が行われていた。そのときに出た睾丸は、炒め物にしてその日の夕食となった。あまり好んで食べたい気分ではなかったが、何かというと人前では「オイシイデス、オイシイデス」を連発して、冷や汗をかきながらもニコニコと料理を食べるよう厳しくしつけられた日本人であった私は、食べながらモンゴル語でさもとってつけたように「おいしい」と言ったのだが、モンゴル人の奥さんはなんとも複雑な表情をしていた。
牛肉の硬くて食べられない筋の部分は、煮凝りを作るのに利用される。モンゴル国の遊牧民のお宅で、旧正月の年越しの日に作られたご馳走で、「ストゥージン」とロシア語で呼ばれていた。四角く切ってお皿に並べ、ザクースキー(ロシア語でオードブルの意)としゃれ込んでいた。実家に帰った折にその話をしたら、「ずいぶん文化レベルが高いね」と父がしきりに感心していた。モンゴル語に固有の煮凝りを指す単語があるのかどうかは知らないが、このストゥージンもわりとポピュラーな料理であるようだ。ただしこれも、口にできるのは遊牧地域限定である。
羊の頭なども小刀を片手に肉をこそげとって食べる。慣れないとちょっとぎょっとするが、日本でも大きな魚の頭を食べたりするので、その感覚なのだろう。日本に留学しているyanzagaさんのブログ(モンゴルのいろいろhttp://blog.goo.ne.jp/yanzaga)によると、特に目玉がおいしいのだという。また、どのようにして食べるのかは知らないが、脳みそなども利用されているようだ。
骨付き肉はすべて肉をこそげとって食べるだけでなく、骨をかち割って骨髄の部分まで食べることがある。まさに「骨の髄まで」である。ここまでして無駄なく食べつくされれば動物の命も浮かばれようというものだ。あるいは、ひょっとしてそう考えるのは我々日本人やモンゴル人だけなのだろうか。一切の殺生を禁ずるインドのジャイナ教徒の人や、捕鯨しておいて油だけとって捨ててしまうことで有名なアメリカ人がいたらちょっと聞いてみたい気もするが。いや、ちょっと話が脱線してしまった。