コンテンツへスキップ

Archives

モンゴル歴代の文人(2)

【ザナバザル(初代ジェブツンダムバ、オンドル・ゲゲーン)】(1635-1723) モンゴルの初代活仏であり、17世紀を代表する仏教芸術家。「東洋のダヴィンチ」とも評される。1639年、五歳のときに、「ゲゲーン」という称号を贈られ、ハルハ地方初の活仏となった。 また彼は、ソヨンボ文字を作った人物しても知られる。この文字は1686年にインドのランズ文字を元に作られた。モンゴル語だけでなく、チベット語、サンスクリット語の音をすべて表せように工夫されている。

モンゴル歴代の文人(1)

【チョイジ・オドセル(チョエキ・オェセル)】 十四世紀初頭にかけて活躍した、文法家・翻訳家・詩人であり、モンゴル仏教とチベット仏教の高僧。そのチベット語名を翻訳して「ノミン・ゲレル(法の光)」とも呼ばれる。彼は『ボルハニ・アルバンホヨル・ゾヒオンゴイ(Бурханы арван хоёр зохионгуй)』という書をチベット語で著しているが、後にそれをモンゴル語訳した書の巻末には「法を輝かしめたことにより、チョイジ・オドセルとして名を馳せた」(リゲティ, 1966, 142)と記されている。このことからして、チョイジ・オドセルというのは本名ではなく、後に与えられた号であることがわかる。幼名をタクメドドルジェといい、一般にはパクパオドの名で知られていた。 チョイジ・オドセルは1305年に『蒙古文啓蒙(Зүрхэн тольт)』というモンゴル語の規範となるものしては初めての文法書を著し、さらにインドの言語やチベット語で書かれた数多くの書物(Бодичария аватара, Банзрагч, Жамбалцанжидなど)をモンゴル語に翻訳した。また、彼が翻訳した書物の前書きや後書きに記された詩などからして、優れた詩人でもあったことが伺える。 彼のもっとも大きな功績としては、ツァガーン・トルゴイを完成させたことにある。かつてサキャ・パンディタが作ったモンゴル文字では「a, e, i」の3母音しか表せなかったが、これに「o, ö , u, ü」を加え、さらに外来語表記のための文字をいくつか加えた。 また、文法用語を整備し、文法語に当たる語が男性・女性・中性で完全に符合するように定めたことも特記すべきである。 <参考文献> Д. Цэрэнсодном, “Монгол уран зохиол (XIII-XX зууны эхэн)”, 1987. 嘉木揚凱朝『モンゴル佛教の研究』, 法蔵館, 2004.

モッツアレラチーズとアーロール

最近スーパーで出回っているモッツァレラチーズなるものを買ってみた。おいしそうなので、つい我慢しきれずにスプーンで一すくい取って食べてみた。 この味はモンゴルのアーロール(ホロードともいう)というチーズとそっくりではないか。正確にいうと、アーロールを作る段階で、まだ乾燥させていない生のアーロールの味である。 さっそくモッツァレラチーズの作り方を調べてみると、大枠ではほとんど作り方は同じようだ。いずれも乳を乳酸発酵させて加熱し、カードとホエー(乳清)を分離させて作る。ただし、モッツァレラチーズでは凝固のためにレンネットを使用する点が大きく異なるようだ。 モッツァレラチーズを乾燥させればアーロールそっくりになるのではないかと思われるが、あいにくこの雨ではなかなか乾かないだろう。

モンゴルへのお土産(モンゴル国編)

モンゴルに行くことになったら、どんなお土産を持っていったらよいだろうか。ちょっとした観光旅行で行くぐらいなら、たいした土産も要らないが、現地でフィールドワークなどのために長期間滞在する場合、お世話になった人に贈る場合、どんなものが喜ばれるか挙げてみよう。 まず、ウランバートルなどの都会に住むモンゴル人だったら、やはり都会的なものが好まれる。多少値は張るが、日本製の腕時計などは人気だ。もしとても親しい相手でとてもお世話になったとしたら、スーツやバッグなどが非常に喜ばれる。それほど予算がないとなったら、ちょっとしたスカーフ、髪留め、ブローチなど、一般に見につけるものなら何でもよいだろう。ただし、伝統的に帽子を贈る習慣はないので注意。 食べ物では日本酒が人気だ。それほど銘柄にはこだわらなくてよい。モンゴル伝統のミルクウォッカと口当たりが似ていると評判だ。日本ではあまり売られていないが、ドイツ製の大きな箱入りのチョコレートもよくプレゼントとしてやり取りされる。これは現地で購入可能だ。日本製の飴などもよいだろう。 遊牧地に行くとしたら、防災グッズ売り場で売られている手回し発電式のライト付きラジオなど、グッドアイデアだと思う。食品ならやはり日本酒や飴がよいだろう。日本からもっていくとかさばるので、遊牧地で配る分は現地で調達してもよい。ツァガーン・アルヒというお酒が遊牧民には好まれる。飴はキロ単位で購入可能だ。どの程度お世話になるのかにもよるが、一世帯あたり500gぐらいをビニール袋に入れて手渡せばなんとか形になる。 また、100円ショップで大量に買っていって、驚くほど好評だったのがウォールポケットである。ゲル(移動式住居)の入り口付近にぶら下げて、歯ブラシや櫛などをまとめてしまっておくのに便利なのだ。遊牧地用のお土産としては、色はなるべく華やかなものが好まれる。

国内モンゴル語研究最前線(4)

【ハラホト文書】 ハラホト文書とは、1983・1984年に中国内モンゴル文物考古研究所・アラシャン盟文物考古站によって、内モンゴル自治区の遺蹟であるハラホト(黒水城)において発見された元朝期の文書である。 2001年11月に、早稲田大学の事業推進担当者が内モンゴル大学の研究者と共同研究することを目的とし、同大学のチメドドルジ教授と協定を結び、本格的な研究に着手している。 ハラホト文書の総文書数は3000点とされる。今回の共同研究で研究対象とされたのは209点で、そのうちモンゴル文書は154点である。ウイグル式モンゴル文字文書70点とパクパ文字文書15点の計85点はすでに解読済みである。解読不能な文書は断片的に過ぎるものが多いという。 協定の関係で、これ以上の研究の詳細については言及を控えるが、できれば2007年度中には文書のカラー写真を付した報告書を刊行する予定だと、早稲田大学モンゴル研究所の吉田順一教授は語っている。

国内モンゴル語研究最前線(3)

【白樺樹皮文書類の研究】 白樺樹皮文書類とは、モンゴル国のオブス県タワクチン・オラーンで1999年6月と、2000年9月に出土したもので、白樺の樹皮にモンゴル文字が書き綴られた文献の束および紙文書を指す。早稲田大学の吉田順一教授を所長とするモンゴル研究所は、発掘者のオチル教授と協定を締結し、共同研究を行っている。 日本のモンゴル研究所側では、2002年3月までに文献の保存処理を行った。2003年度からはモンゴル国側に写真カットを送り、それぞれで研究する体制を築き、本格的に研究を開始した。現在では、全文書のローマ字転写が完了しており、一件の冊子体文書については早稲田大学モンゴル研究所『紀要』創刊号に掲載された。 これらの白樺樹皮文書は、17~18世紀頃のもので、宗教関係の内容のものが多く、当時モンゴル国西部にも白樺樹皮を使った文字文化が存在したことなどを明らかにした点で意義深い。 なお、現在ではモンゴル研究所の研究プロジェクトから外されているが、日本側研究代表者は井上治教授が務めており、白樺樹皮文書は2005年にモンゴル国側に返還されている。

国内モンゴル語研究最前線(2)

【オロンスム文書】 2006年12月2日、横浜ユーラシア文化館の主催で「オロンスム文書」のシンポジウムが開催された。http://www.eurasia.city.yokohama.jp/event/061202/program.html オロンスムとは、中国内モンゴル自治区にある遺蹟で、元朝時代に有力だったオングト族の本拠地だった。16世紀にはアルタン・ハーン(1507~1581)により、チベット仏教が導入され、多くの仏教寺院が建てられている。オロンスム出土モンゴル語文書は、そうした16~17世紀の資料である。 横浜ユーラシア文化館は、1998年よりオロンスム出土資料の研究を行っており、2004年より館外の研究者の協力を得て、オロンスム出土モンゴル語文書の研究を開始した。まず、モンゴル語テキストのローマ字から着手し、赤外線投射を行って保存状態の悪い文書の解読を試みた。併せて、東京大学総合研究博物館所蔵オロンスム出土文書の調査も行っている。 今後はオロンスム文書のホームページでの公開が予定されており、2007年度にはデータベースとして公開されるという。 オロンスム出土モンゴル語文書の研究意義について、モンゴル語の出土文献・文書の中ではもっとも東(モンゴル高原中南部)の遺蹟から発見されたものであり、主に17世紀のモンゴル人と寺院の関わり、モンゴル人の生活に由来する精神世界を窺い知ることができると、研究協力者の一人、井上治氏はシンポジウムの席で語っている。

チンギス・ハーンに関する文献(7)

国外においてここ数年、チンギス・ハーンに関するいくつかの良書が刊行されたことについても、特に言及したい。これらには、Пауль Рачиневскийの『チンギス・ハーンおよびその生涯と業績』という1983年に出版された書物がある。同書では、歴史的資料を学術的に再度検討し、一部の史実について、新たな解釈を試みている。しかも、チンギス・ハーンの伝記、彼の歴史上で果たした役割と地位について正しい評価を下した優れた書であり、西欧において刊行されたチンギス・ハーンに関する作品の中では特に優れたものである。 チンギス・ハーンについてごく最近出された書籍の中では、内モンゴルの学者サイシャールが1987年に発表した『チンギス・ハーンの要綱』という2冊本がある。サイシャールによるこの書物は、後にも先にも、チンギス・ハーンに関して出された本の中で最も規模が大きなものである。サイシャールは、チンギス・ハーンの伝記、歴史に関するすべての文献資料、論文をくまなく調べ尽くし、チンギス・ハーンの生涯についての詳細な研究を行い、チンギス・ハーンがモンゴル史および世界史において果たした役割、そこに占める位置づけを精確に解釈することに務めた。また、サイシャールの更に優れている点は、歴史的な年代、地名などを調査して明らかにし、誤りを改めることに関して、極めて精緻な仕事を行ったことにある。 『チンギス・ハーンの要綱』は、チンギス・ハーン研究において多大な成功をおさめた、賞賛に値する作品として見做すべきことを特記しなければならない。 モンゴルの封建主義の時代の歴史について、国外で出された書物について言及するならば、日本の学者たちの研究についても触れておくべきだろう。日本の学者たちは、モンゴルの中世の歴史研究において、いうまでもなく第一の地位を占めているが、中でも元朝秘史を詳細に研究した小沢重男や村上、モンゴルの封建主義の歴史を研究した岩村、ヤナイらが挙げられる。その他にもチンギス・ハーンの伝記を記した書物は数多く存在するようだが、筆者(ナツァグドルジ)はタカイシ・カズフジの『チンギス・ハーン』という本が出版されたのを、内モンゴルの学者が翻訳出版したことを通して知ったのみである。

チンギス・ハーンに関する文献(6)

1930年代に西ヨーロッパでは、何度も再版されたエル・ハラ・ダワーの『チンギス・ハーン将軍とその遺産』、レンベの著による『全人類の主チンギス・ハーン』などが出版されたが、(これらは)チンギス・ハーンをあまりにも賞賛して持ち上げ、犯した過ちを正当化したもので、学術的な価値はそれほど高くなく、史実が半分含まれた小説というべきである。 一方、イギリスの学者ラリフ・フオックスによって書かれた『チンギス・ハーン』という書物は、上記の作品よりも学術的な見地からして極めて優れた作品である。1950年にはD. マーチンの『チンギス・ハーンの繁栄と北宋の征服』という作品が出版された。この作品の優れている点は、O.ラティモアが指摘した通り、西洋の学者たちはモンゴル人の遠征を単にチンギス・ハーンとその子孫たちが行った西方への遠征についてのみ言及し、東方、例えば宋に対して行った遠征については十分言及していない。しかしながらマーチンは宋を征服した出来事を特に詳細に研究している。さらに最も重要な点は、大量の漢語の文献を利用しているということだ。 チンギス・ハーンの伝記として個別に書かれたわけではないが、モンゴルの行った征服、モンゴル帝国、チンギス・ハーンの生涯について述べた数多くの作品が西洋で書かれている。それらのすべてをここで紹介するわけにはいかないが、特にその中で挙げておきたいのは、モンゴルの国外アカデミーの会員、国際モンゴル学会の初代会長を務めたモンゴル学者O.ラティモアによる多くの学術論文である。例えば、『中国の中央アジアの境界』(1940)という作品を挙げるべきであろう。O.ラティモアの作品では、中央アジアおよびモンゴルの遊牧社会の発展、その特徴について非常に興味深く、深い考察がなされている。