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インド人と柿の種

2007-05-03 | 未分類

柿の種というお菓子があるが、あれにピーナッツが入った柿ピーがインドでブームになりつつあるという。インド大使が帰国の際、お土産用に大量にお買いになったという記事がネットニュースに流れていた。 実はすでに10年前、インドで柿の種が好評だという話はインド通の友人から耳にしていた。ちょうど近所で安売りをやっていたので何箱か買って、インドへと旅立つ彼女に進呈したことがある。 私が17年前にインドを旅行した頃にはまだそのようなことは知らなかった。ところが去年、久々にインドを訪れるためにガイドブック『地球の歩き方』のインド編を買いなおしたところ、ちゃんと「インドへのお土産には柿の種が人気」という記事が出ていた。するとこのことから推測して、十数年前に誰かがこの事実を発見して、インド通の日本人の間で口づてに広まっていったか、あるいは『地球の歩き方』を介して一挙に広まったのではないかと思われる。 なるほど、あのピリリとした辛さがインド人の味覚にマッチしていたというのはうなづけるが、それにしてもいったいインド人が柿の種に味をしめだしたのはいつからなのだろう。

携帯でモンゴル語

中国内モンゴル自治区で、携帯のモンゴル語によるサービスが開始された。いったい、入力方法などはどうなっているのか興味しんしんだが、実物を目にすることができないのが残念だ。 詳細は以下のサイトを参照。http://jp1.chinabroadcast.cn/151/2007/01/08/1@83379.htm

清代のモンゴル語規範書

清朝の統治者は、モンゴル地区およびそこに居住するモンゴル族の統治を容易にするため、理藩院と諸旗の衛署においてモンゴル語とモンゴル文字の使用を推奨し、北京とモンゴルの各地では「モンゴル官学」のようなものを振興させた。 学生たちはモンゴル語会話を身につけただけでなく、さらに満州語、漢語、モンゴル語の読み書きも学んでいた。同時に、政府からはモンゴル語の規範化と正書法の統一を望む声が出され、重要な公文書、典籍、律令などは、すべてモンゴル語への翻訳刊行が必要とされた。 このように清朝政府がモンゴル語や文字の使用を強く推し進めたため、清代には、モンゴル語による著作、モンゴル文字の正書法、用語集、辞典等が数多く出された。これらには例えば、富俊編著の『蒙文旨要』、阿尤喜固什の『アリガリ文字』、賽尚阿の『蒙文彙書』や『蒙文晰義』等がある。 ��参考サイト>http://www.nmg.gov.cn/nmgly/lswh/qd_25.htmより抄訳。

『満州実録』

清朝満州族の原流と興起とを語る唯一の史料である。言語資料としては、満州語の原文に、漢訳、蒙訳が附されて一巻を成しているが、その蒙訳の蒙古語は、翻訳臭を余り感じさせない良質の蒙古語文語であって、十七~十八世紀の蒙古語資料として、十分使用に耐えうるものと考えられる。 「満洲実録」は戦前(昭和十三年)、日満文化協会から『今西春秋訳 蒙和対訳満洲実録』として出版されていたが、原書の「蒙」の部分が割愛されていた。最近では満蒙2体の原文をすべてローマ字に転写し、それぞれに日本語訳を附した、今西春秋訳『満和蒙対訳 満洲実録』が1992年に刀水書房から出版されている。 ��出典>刀水書房パンフレットより抜粋

『蒙文指要』

学習院大学図書館の和漢籍蔵書データベースで「蒙文晰義」という書物の存在を知ったことについては、すでにこのブログに書いたが、ちょっと気になったので調べてみた。 「中國大百科智慧蔵」というサイトの記事によると、もともとこれは全四巻からなる『蒙文指要』の一巻目である。『蒙文指要』の各巻は、それぞれ「蒙文晰義」、「蒙文法程」、「便覽正訛」、「便覽補彙」と名付けられている。 『蒙文指要』は清代にモンゴル族の文学者、賽尚阿(1798~1875)によって編纂され、1848年に刊行されたという。 東洋文庫のOPACでも調べてみたところ、同図書館には「蒙文晰義」、「蒙文法程」、「便覽正訛」、「便覽補彙」の四巻すべてが収蔵されていることが判った。ただし、妙なことに、東洋文庫のデータでは出版年は嘉慶19年(1811年)とされており、「中國大百科智慧蔵」の記事に記された刊行年とは一致しない。 ��参考サイト>中國大百科智慧蔵

『蒙語老乞大』

『老乞大』とは、漢語(中国語)、モンゴル語、満州語を学ぶ目的で、司訳院において伝統的に使用されてきた最も重要なテキストだ。このうち『蒙語老乞大』は1741年、1776年、1790年の計3回出版されている。 全六巻の『蒙語老乞大』木版本は、ソウル国立大学図書館の奎章閣(Kyujanggak)と日本の東洋文庫に所蔵されている。両者は多くの点において一致していることから、同一の版本と見なされ、3回に渡る出版のうち1790年に方考彦らによって再版されたもので、奎章閣に残されているのはその影印本だ。 この書物は、同じ時代に同じ人々によって著された『捷解蒙語』や『蒙語類解』と並び、朝鮮語で記されたものとして、モンゴル語研究のための非常に貴重な資料である(これらは併せて「蒙学三書」と呼ばれる)。 テキスト本文はモンゴル語で書かれており、脇にはハングルでモンゴル語の発音を添え、(その下には)2行ずつの朝鮮語の翻訳文が書かれている。概して『蒙語老乞大』のモンゴル語には、文語的要素と口語的要素が混在し、方言としては当時の北京と瀋陽に住むモンゴル人の話していたモンゴル語である。 ��出典>『国学資料第3輯 蒙語老乞大』西江大学校人文科学研究所, 1983. (巻末解説の英語要約文より翻訳)

モンゴル数字の書体

先日、故あって恩師から服部四郎著の『蒙古字入門』をいただいた。ちょうど時期的にいろいろと重なって、いいかげん学問も諦めようかと弱気になっていた矢先のことだった。 服部四郎といえば、『音声学』という幻の名著の著者で、言語学を学ぶ者ならば知らぬ者はいない存在だが、この『蒙古字入門』を読んで、改めてそのすごさをまざまざと実感させられた。 蒙古文字(縦書きのウイグル式モンゴル文字)には、通常使われるものの他に、経典などでチベット語音やサンスクリット語音を表すための十七世紀の初に作られた、ガリック字という字母がある。同書には、その活字体のローマ字転写の表も収められていて大変便利である。序文によると、ガリック字母の字体はシュミットの文典や同文韻統(乾隆内府原刻本)などを参照して決定したとのことである。 中でも特に感動させられたのは、蒙古文字で使われるモンゴル数字の書体に二通りあるということである。蒙古文字にはチベット数字とよく似た特別の数字があって、文の中では時計回り90度に横に倒し、縦組みで用いられる。チベット数字との関係や書体に二通りある理由についても知りたかったが、それ以上の詳しいことにまでは言及されていない。 とにかく、モンゴル語は奥が深くて、まともに腰をすえてやろうと思うと学ぶべきことが多くてきりがないようだ。つくづく、モンゴル語という言語を選んでよかったと思う。

『蒙古遊牧記』

先日、神田の古書店で『蒙古遊牧記』という全十六巻(六冊本)を格安で入手した。しかも線装本である。帰宅してから調べてみると、かつて出版された影印本でもかなり値がはるという希少書のようだ。私のような個人が所蔵するにはいささか気が引ける。 ちなみに、学習院大学図書館の和漢籍蔵書目録データベースで調べてみたところ、同図書館には『蒙古遊牧記』を含む『皇朝藩属与地叢書』の全六集が収蔵されている。 この他にも同データベースでモンゴル関係の和漢書を検索してみたが、賽尚阿『蒙文晰義』という書物の存在がひときわ目を引いた。清代に著されたモンゴル語の規範書のようだ。機会があったらぜひ閲覧しに行ってみたい。

モンゴル語教育の歴史

中国のサイトに、元朝から現代までにおけるモンゴル語教育の歴史を概観した記事があった。今眠いので後でまとめることにして、とりあえずURLだけメモ。 http://www.alswh.com/Article_Show.asp?ArticleID=1237

チンギス・ハーンに関する文献(1)

「チンギス・ハーンとその時代に関する史料または文学作品」 (Ш. Нацагдорж, “Чингис хаан ба түүний үеийн талаарх сурвалж бичиг. зохиол”, Чингис хааны цадиг, Улаанбаатар.1991. より翻訳)  モンゴルの歴史資料として第一に挙げられるのは、チンギス・ハーンとその時代の歴史を描写した文献である。これらは主に、13~15世紀に書かれたものと、15~17世紀に書かれたものの二つに分類できる。 13世紀に書かれた代表的な歴史資料といえば、よく知られた『元朝秘史』である。この書物の成立年代については学者によって諸説あるが、ここでは1240年に成立したとする説を採用して話を進めることにする。 多くの学者たちは『元朝秘史』を物語性の強い、むしろ口承文芸に属するものであり、歴史的な裏づけは低く、歴史的資料としての価値は低いと見なしているようだ。しかしながら、『元朝秘史』は口承文芸や詩に彩られた側面だけでなく、13世紀のモンゴルの歴史、例えばチンギス・ハーンのとった行動などについて詳しく描写しているという点も見逃してはならず、十分に価値ある歴史的資料だということは否定できない。 『元朝秘史』は当時の文献として唯一残されたものではなく、それと並行してその他の歴史資料も存在していたことが明らかになっている。元の時代の文献を見ると、黄金の家系、つまり皇帝の血筋を引く者にしか閲覧することを許されなかったという『イフ・トプチョー』についての記述がある。 『元朝秘史』は現存するものはすべてモンゴル語の発音に漢字を当てて書き表したものだけで、原本となるモンゴル語で書かれたものは失われてしまっている。1926年に古文書館の館長を務めていたジャミヤン・グンは、ロプサンダンザンの作による『アルタン・トプチ』をハルハのツェツェン・ハン盟のバヤントゥメンの近くで、ユンシィエブ太祖(?)の子孫である人から譲り受けたが、この文献には『元朝秘史』のかなり多くの部分が重複して含まれていただけでなく、『元朝秘史』には記述されていなかった数多くの興味深い事実が記述されている。 ジャミヤンが入手した『羅・アルタン・トプチ』の存在は、『元朝秘史』がもともとモンゴル文字で書かれていたということを裏付ける証拠となりうる。 なお、アルタントプチと呼ばれるものには『羅・アルタン・トプチ』だけでなく、『大アルタントプチ』や作者不明の『アルタン・トプチ』など、いくつか存在する。 J. ツェベーによれば、十六世紀から十七世紀に書かれたサガンセチェンによる『蒙古源流』などはラマ僧たちが実権を握っていた頃に書かれたもので、モンゴルの王族の系統をインドやチベットの系統に結びつけて記述しており、チンギス・ハーンを始めとするモンゴルの王侯たちの行いはすべてチベット仏教のラマ僧の説法に従ってなされていたかのような記述が随所に見受けられる。 その他の文献としては、バーリン出身のラーシ・ポンツァグによる『水晶念珠』、チャハル出身のゴンポジャブによる『恒河之流』、ジャンバルドルジによる『水晶鑑』などが挙げられる。 これらの作品は、当時の知識人たちによって中国語やチベット語の文献を参考にして書かれたという特徴を持ち、作者自身のものの見方が作品に反映されているという点が興味深い。例えば、ある作品では一貫してチンギス・ハーンを主体としているのに対して、別のある作品では弟のハサルを弁護したり賞賛したりするニュアンスが強い。ある作品では、中国の文献にモンゴルの歴史が歪曲して描かれていることを批判している。特に、ラーシ・ポンツァグの『水晶念珠』やジャンバルドルジの『水晶鑑』には、他の歴史書には現れないような興味深い内容が含まれる。 とはいえ、それらの記述には他の歴史書と矛盾するものも少なくない。例えばジャンバルドルジの作品では、テムジンが3歳のときに父親が亡くなり、母親もそのすぐ後で亡くなったと描写されており、その他の歴史書や『元朝秘史』とは内容に食い違いがある。だから、こられの歴史家たちの記述に目を通す際には、十分批判的な態度で臨む必要がある。 上記の文献以外には、『シャル・トージ』や『アスラクチ史』、ロミーによる『モンゴルのボルジギン氏族の歴史』、ガルダン・トスラクチによる『エルデニーン・エルヘ』など、様々な文献が存在する。 また、モンゴル語の文献だけでなく、外国語によって記述された文献も非常に数多く、まず第一に中国の歴史書が挙げられる。数多くの文献のなかでも、特に重要なのは『元史』という書物である。(訳注:次回に続く)