【チョイジ・オドセル(チョエキ・オェセル)】 十四世紀初頭にかけて活躍した、文法家・翻訳家・詩人であり、モンゴル仏教とチベット仏教の高僧。そのチベット語名を翻訳して「ノミン・ゲレル(法の光)」とも呼ばれる。彼は『ボルハニ・アルバンホヨル・ゾヒオンゴイ(Бурханы арван хоёр зохионгуй)』という書をチベット語で著しているが、後にそれをモンゴル語訳した書の巻末には「法を輝かしめたことにより、チョイジ・オドセルとして名を馳せた」(リゲティ, 1966, 142)と記されている。このことからして、チョイジ・オドセルというのは本名ではなく、後に与えられた号であることがわかる。幼名をタクメドドルジェといい、一般にはパクパオドの名で知られていた。 チョイジ・オドセルは1305年に『蒙古文啓蒙(Зүрхэн тольт)』というモンゴル語の規範となるものしては初めての文法書を著し、さらにインドの言語やチベット語で書かれた数多くの書物(Бодичария аватара, Банзрагч, Жамбалцанжидなど)をモンゴル語に翻訳した。また、彼が翻訳した書物の前書きや後書きに記された詩などからして、優れた詩人でもあったことが伺える。 彼のもっとも大きな功績としては、ツァガーン・トルゴイを完成させたことにある。かつてサキャ・パンディタが作ったモンゴル文字では「a, e, i」の3母音しか表せなかったが、これに「o, ö , u, ü」を加え、さらに外来語表記のための文字をいくつか加えた。 また、文法用語を整備し、文法語に当たる語が男性・女性・中性で完全に符合するように定めたことも特記すべきである。 <参考文献> Д. Цэрэнсодном, “Монгол уран зохиол (XIII-XX зууны эхэн)”, 1987. 嘉木揚凱朝『モンゴル佛教の研究』, 法蔵館, 2004.
【ハラホト文書】 ハラホト文書とは、1983・1984年に中国内モンゴル文物考古研究所・アラシャン盟文物考古站によって、内モンゴル自治区の遺蹟であるハラホト(黒水城)において発見された元朝期の文書である。 2001年11月に、早稲田大学の事業推進担当者が内モンゴル大学の研究者と共同研究することを目的とし、同大学のチメドドルジ教授と協定を結び、本格的な研究に着手している。 ハラホト文書の総文書数は3000点とされる。今回の共同研究で研究対象とされたのは209点で、そのうちモンゴル文書は154点である。ウイグル式モンゴル文字文書70点とパクパ文字文書15点の計85点はすでに解読済みである。解読不能な文書は断片的に過ぎるものが多いという。 協定の関係で、これ以上の研究の詳細については言及を控えるが、できれば2007年度中には文書のカラー写真を付した報告書を刊行する予定だと、早稲田大学モンゴル研究所の吉田順一教授は語っている。
【白樺樹皮文書類の研究】 白樺樹皮文書類とは、モンゴル国のオブス県タワクチン・オラーンで1999年6月と、2000年9月に出土したもので、白樺の樹皮にモンゴル文字が書き綴られた文献の束および紙文書を指す。早稲田大学の吉田順一教授を所長とするモンゴル研究所は、発掘者のオチル教授と協定を締結し、共同研究を行っている。 日本のモンゴル研究所側では、2002年3月までに文献の保存処理を行った。2003年度からはモンゴル国側に写真カットを送り、それぞれで研究する体制を築き、本格的に研究を開始した。現在では、全文書のローマ字転写が完了しており、一件の冊子体文書については早稲田大学モンゴル研究所『紀要』創刊号に掲載された。 これらの白樺樹皮文書は、17~18世紀頃のもので、宗教関係の内容のものが多く、当時モンゴル国西部にも白樺樹皮を使った文字文化が存在したことなどを明らかにした点で意義深い。 なお、現在ではモンゴル研究所の研究プロジェクトから外されているが、日本側研究代表者は井上治教授が務めており、白樺樹皮文書は2005年にモンゴル国側に返還されている。
【オロンスム文書】 2006年12月2日、横浜ユーラシア文化館の主催で「オロンスム文書」のシンポジウムが開催された。http://www.eurasia.city.yokohama.jp/event/061202/program.html オロンスムとは、中国内モンゴル自治区にある遺蹟で、元朝時代に有力だったオングト族の本拠地だった。16世紀にはアルタン・ハーン(1507~1581)により、チベット仏教が導入され、多くの仏教寺院が建てられている。オロンスム出土モンゴル語文書は、そうした16~17世紀の資料である。 横浜ユーラシア文化館は、1998年よりオロンスム出土資料の研究を行っており、2004年より館外の研究者の協力を得て、オロンスム出土モンゴル語文書の研究を開始した。まず、モンゴル語テキストのローマ字から着手し、赤外線投射を行って保存状態の悪い文書の解読を試みた。併せて、東京大学総合研究博物館所蔵オロンスム出土文書の調査も行っている。 今後はオロンスム文書のホームページでの公開が予定されており、2007年度にはデータベースとして公開されるという。 オロンスム出土モンゴル語文書の研究意義について、モンゴル語の出土文献・文書の中ではもっとも東(モンゴル高原中南部)の遺蹟から発見されたものであり、主に17世紀のモンゴル人と寺院の関わり、モンゴル人の生活に由来する精神世界を窺い知ることができると、研究協力者の一人、井上治氏はシンポジウムの席で語っている。
『同文韻統』とは、章嘉呼図克図によって乾隆十四年(1749年)に編纂された、梵字、チベット文字、満州文字、蒙古文字、漢字の対応表を附した書である。『欽定同文韻統』または『御製同文韻統』とも題され、6巻本の版と8巻本の版がある。 著者の章嘉呼図克図(章嘉活仏)は、中国内モンゴル地区で信仰されるチベット仏教最大の活仏であり、清代に内モンゴルのチベット仏教を取り仕切っていた。章嘉一世は元の名を張家といい、後に章嘉と改名した。呼図克図(ホトクト)はモンゴル語で聖者を意味する。なお、母寺は青海佑寧寺(かつての郭隆寺)である。 筆者の手元にあるのは、台湾で民国67年(1978年)に刊行された新文豊出版公司による『同文韻統六巻』の影印本で、単行本として刊行されている。 ・第一巻・・・「天竺字母譜」として梵字(悉曇文字?)、チベット文字、満州文字、蒙古文字(アリガリ文字を含む)、漢字の対応表・第二巻・・・「天竺音韻翻切配合十二譜」・第三巻・・・主にチベット文字の重子音についての表からなる。チベット文字と満州文字、蒙古文字、漢字の対応表・第四巻・・・「天竺西番陰陽字譜」として、そのうち「天竺音韻十六字」、「天竺翻切三十四字」、「西番字母三十字」、チベット文字、満州文字、蒙古文字、漢字の対応表で、表中に梵字は含まれない。・第五巻・・・「大蔵経字母同異譜」・第六巻・・・表音字として用いられた漢字と、個々の発音についての詳細。
少々古い記事だが、モンゴル国において定められたキリル文字モンゴル語のローマ字転写の基準に関する記事があったのでメモしておく。 http://www.tsahimurtuu.mn/show.php?table=latin_galig&id=2 ただし、一般にはあまり普及していないようだ。モンゴル国のモンゴル人がチャットやメールなどでローマ字を使ってモンゴル語を書き表すときには、主に2~3種類の流儀がある。これらについては後日詳しく紹介するが、いずれも実際的な必要性から自然発生的にできあがったものだろう。 ちなみに、bainaという語は頻出するので、bnaと略して表記されることが多い。ほんの豆知識(笑)。
清朝の統治者は、モンゴル地区およびそこに居住するモンゴル族の統治を容易にするため、理藩院と諸旗の衛署においてモンゴル語とモンゴル文字の使用を推奨し、北京とモンゴルの各地では「モンゴル官学」のようなものを振興させた。 学生たちはモンゴル語会話を身につけただけでなく、さらに満州語、漢語、モンゴル語の読み書きも学んでいた。同時に、政府からはモンゴル語の規範化と正書法の統一を望む声が出され、重要な公文書、典籍、律令などは、すべてモンゴル語への翻訳刊行が必要とされた。 このように清朝政府がモンゴル語や文字の使用を強く推し進めたため、清代には、モンゴル語による著作、モンゴル文字の正書法、用語集、辞典等が数多く出された。これらには例えば、富俊編著の『蒙文旨要』、阿尤喜固什の『アリガリ文字』、賽尚阿の『蒙文彙書』や『蒙文晰義』等がある。 ��参考サイト>http://www.nmg.gov.cn/nmgly/lswh/qd_25.htmより抄訳。
清朝満州族の原流と興起とを語る唯一の史料である。言語資料としては、満州語の原文に、漢訳、蒙訳が附されて一巻を成しているが、その蒙訳の蒙古語は、翻訳臭を余り感じさせない良質の蒙古語文語であって、十七~十八世紀の蒙古語資料として、十分使用に耐えうるものと考えられる。 「満洲実録」は戦前(昭和十三年)、日満文化協会から『今西春秋訳 蒙和対訳満洲実録』として出版されていたが、原書の「蒙」の部分が割愛されていた。最近では満蒙2体の原文をすべてローマ字に転写し、それぞれに日本語訳を附した、今西春秋訳『満和蒙対訳 満洲実録』が1992年に刀水書房から出版されている。 ��出典>刀水書房パンフレットより抜粋
学習院大学図書館の和漢籍蔵書データベースで「蒙文晰義」という書物の存在を知ったことについては、すでにこのブログに書いたが、ちょっと気になったので調べてみた。 「中國大百科智慧蔵」というサイトの記事によると、もともとこれは全四巻からなる『蒙文指要』の一巻目である。『蒙文指要』の各巻は、それぞれ「蒙文晰義」、「蒙文法程」、「便覽正訛」、「便覽補彙」と名付けられている。 『蒙文指要』は清代にモンゴル族の文学者、賽尚阿(1798~1875)によって編纂され、1848年に刊行されたという。 東洋文庫のOPACでも調べてみたところ、同図書館には「蒙文晰義」、「蒙文法程」、「便覽正訛」、「便覽補彙」の四巻すべてが収蔵されていることが判った。ただし、妙なことに、東洋文庫のデータでは出版年は嘉慶19年(1811年)とされており、「中國大百科智慧蔵」の記事に記された刊行年とは一致しない。 ��参考サイト>中國大百科智慧蔵
『老乞大』とは、漢語(中国語)、モンゴル語、満州語を学ぶ目的で、司訳院において伝統的に使用されてきた最も重要なテキストだ。このうち『蒙語老乞大』は1741年、1776年、1790年の計3回出版されている。 全六巻の『蒙語老乞大』木版本は、ソウル国立大学図書館の奎章閣(Kyujanggak)と日本の東洋文庫に所蔵されている。両者は多くの点において一致していることから、同一の版本と見なされ、3回に渡る出版のうち1790年に方考彦らによって再版されたもので、奎章閣に残されているのはその影印本だ。 この書物は、同じ時代に同じ人々によって著された『捷解蒙語』や『蒙語類解』と並び、朝鮮語で記されたものとして、モンゴル語研究のための非常に貴重な資料である(これらは併せて「蒙学三書」と呼ばれる)。 テキスト本文はモンゴル語で書かれており、脇にはハングルでモンゴル語の発音を添え、(その下には)2行ずつの朝鮮語の翻訳文が書かれている。概して『蒙語老乞大』のモンゴル語には、文語的要素と口語的要素が混在し、方言としては当時の北京と瀋陽に住むモンゴル人の話していたモンゴル語である。 ��出典>『国学資料第3輯 蒙語老乞大』西江大学校人文科学研究所, 1983. (巻末解説の英語要約文より翻訳)