モンゴル仏教の尊格を整理すると、「仏」「菩薩」「護法尊」「忿怒尊」といった分類だけでは収まりきらない例が少なくない。同じ尊格が複数の役割をもち、ある名称が尊格そのものを指す場合もあれば、尊格の類型、称号、別名、略称を指す場合もあるためである。

典型的な例がОчирваань(ヴァジュラパーニ、金剛手)である。ヴァジュラパーニは仏の力を象徴する菩薩として知られるが、チベット・モンゴル仏教では忿怒相をとり、仏法を守護する尊格としても信仰される。そのため、Очирвааньを「菩薩」だけに分類すると護法的な側面が見えなくなり、「護法尊」だけに分類すると菩薩としての位置づけが失われる。ITAKOモンゴル語辞書では、この二つの側面を反映して両方の分類に掲載している。

чойжинには、これとは別の複雑さがある。この語は、仏法を守護する護法尊を指す一方、神霊を憑依させて託宣を行う宗教者を指す場合もある。両者は歴史的には無関係ではないが、辞書上は同じ意味として扱えない。尊格の分類名としてのчойжинと、宗教者を指すчойжинを区別する必要がある。

Эрлэг номун ханは、個別の護法尊である。日本語では「閻魔法王」、英語では Yama Dharmaraja と表される。したがって、чойжинが護法尊という広い範囲を示す語であるのに対し、Эрлэг номун ханはその範囲に属する具体的な尊格名として位置づけられる。

一方、Номун хан⁽³⁾はЭрлэг номун ханの略称として用いられる。このため、Номун ханという同じ形でも、仏教上の称号、地名、尊格名の略称という異なる語義が生じる。形が同じであることと、意味が同じであることは別である。

さらに、Дамдин ЧойжооはЭрлэг номун ханと強く関係するが、辞書上は別項目として保持する必要がある。名称が異なるものを一つに統合すると、それぞれがどのような文脈で使われるのかが見えにくくなるためである。両者の関係は、項目を統合するのではなく、関連語として結ぶほうが明確である。

同じ問題はНамсрайЖамбала / Замбалаにも見られる。両者はともに富や財宝と深く関係し、モンゴル仏教では近い存在として扱われ、ときに同一視されることもある。しかし、名称、図像、伝承上の系統まで同一とは限らない。ここでも、別項目として保持しながら関連を示すほうが、それぞれの位置づけを失わずに済む。

このような重なりは、分類の不整合ではない。インド仏教、チベット仏教、モンゴルにおける受容と信仰が重なった結果、同じ尊格が複数の役割をもったり、一般名と個別名、正式名と略称が交差したりするためである。

そのため、モンゴル仏教の尊格を整理する際には、「一語につき一分類」という形に無理に収めるよりも、主分類、追加分類、別名、略称、関連語を分けて扱うほうが実態に即している。Очирвааньを「菩薩」と「護法尊」の両方に掲載し、Эрлэг номун ханを独立した護法尊として示しながらчойжинやДамдин Чойжооと関連づける構成も、その考え方によるものである。

モンゴル仏教の尊格を理解するには、「何に分類されるか」だけでなく、どの姿で現れ、どの役割を担い、どの名称で呼ばれ、他の尊格とどのような関係にあるかを見る必要がある。分類の重なりそのものが、モンゴル仏教の語彙と信仰の成り立ちを示している。